2022年3月9日水曜日

2022年3月9日の聖句

主を畏れることは悪を憎むこと。(箴言8:13)
私たちは神の作品へと、善い行いのために、キリスト・イエスにあって造られたからです。(エフェソ2:10)

悪を愛しながら主なる神様を畏れることはできない。聖書はそう断言します。一方では「御名をあがめさせたまえ」と祈りながら、他方では悪を行うことはできない。自分の名前を大きくしながら神さまのお名前を誉めたたえることは不可能です。なぜなら「私たちは神の作品へと、善い行いのために、キリスト・イエスにあって造られたからです」。
神さまが私たちを造り、命を与えてくださいました。私も、神さまの作品。神さまは私を「善い行いのために」お造りになった。花瓶は花を生けるために造られたのであって、誰かの頭をたたき割るために造られたのではありません。絵画はそれを鑑賞して美に触れたり、あるいはそれを通して何かを表現するために描かれたのであって、投機目的で絵を見もしないで死蔵するために描かれたのではありません。私たちは神の作品であって、悪い行いのためではなく、善い行いのために造られました。花瓶が花瓶としての命を得るのは、花を生けられたときです。絵が絵としての命を得るのは、鑑賞されるときです。私たちは、善い行いに生きるときに、神に造られた作品として命を得るのです。
善い行いとは何か?それは、私たちが「キリスト・イエスにあって造られた」という事実から明らかになります。キリストをまねて生きてこそ、神さまが私たちを造ってくださったその「私らしさ」が輝くのではないでしょうか。キリストをまねて生きる。それはまず何よりも祈りつつ生きるということです。今、私たちの生きるこの世界は、本当に深刻に傷つき、また動揺しています。戦争の罪が重ねられています。このことを覚え、私たちは祈りを重ねましょう。キリストの平和を求めて。神さまの国が来ますように。神さまのお名前があがめられますように、と。キリストが祈りを重ねて歩まれたように、私たちも、何よりも祈ることを尊び、神の作品として、造り主に向かって今日の日を生きていきましょう。

2024年4月24日の聖句

恐れるな、もはや恥を受けることはないから。(イザヤ54:4) 天使は女たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」(マタイ28:5~6) 「あの方は、ここにはおられない。」最初のイースターの朝...