私たちの神のような岩はほかにありません。(サムエル上2:2)
だれも、すでに据えられている土台以外の物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。(1コリント3:11)
教会の土台はイエス・キリストです。キリストという大岩、私たちを救う砦、困難な日の盾、そこに私たちキリスト教会は建てられています。この岩、この土台以外のものを据えることはできません。そうしようとすれば、木に竹を接ぐようなことになってしまうでしょう。教会がキリストの教会として立つことができなくなってしまいます。
教会は、いつの時代にも、キリスト以外の土台を据えようという誘惑に晒されています。例えば、ヒューマニズムです。辞書で引くと、このように説明しています。「(1)さまざまな抑圧や束縛から人間を解放し、人間性の尊厳を確立しようとする思想。人文主義。人本主義。(2)人間性を尊重し、人類愛の立場から人類全体の幸福をはかろうとする思想。人道主義。」すごく良いことを言っている。そうすると、ここから提起される問題に答えることが教会の責任だと考えるようになってしまう。しかし教会は、ヒューマニズムからの問いに答えることが第一の責務ではありません。教会は、何よりもまず神の問いに答える責務があります。お前はキリストの教会として、キリストを土台としているか、と神は私たちに問うておられる。そのことを無視したならば、この世界の問いに例え答えたとしても、それが何の役に立つのでしょうか。
教会は世を畏れず、ただ神を畏れます。しかし実際のところ、世を畏れないで済むのは、神を畏れているときだけです。私たちが世間の目や評価、問いを畏れ、それに答えることを自分の責任とするのではなく、神がキリストの存在を通して私たちのあり方を問う問いに答えようと願うとき、私たちはまさにキリストの教会として生き始めているのです。キリストは私たちの足を洗い、私たちに仕え、愛し、私たちのためにすべてを与え尽くしてくださいました。このキリストを土台として建てられたという事実自体が、神さまから私たちへの問いであり、私たちの存在する理由なのです。
だれも、すでに据えられている土台以外の物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。(1コリント3:11)
教会の土台はイエス・キリストです。キリストという大岩、私たちを救う砦、困難な日の盾、そこに私たちキリスト教会は建てられています。この岩、この土台以外のものを据えることはできません。そうしようとすれば、木に竹を接ぐようなことになってしまうでしょう。教会がキリストの教会として立つことができなくなってしまいます。
教会は、いつの時代にも、キリスト以外の土台を据えようという誘惑に晒されています。例えば、ヒューマニズムです。辞書で引くと、このように説明しています。「(1)さまざまな抑圧や束縛から人間を解放し、人間性の尊厳を確立しようとする思想。人文主義。人本主義。(2)人間性を尊重し、人類愛の立場から人類全体の幸福をはかろうとする思想。人道主義。」すごく良いことを言っている。そうすると、ここから提起される問題に答えることが教会の責任だと考えるようになってしまう。しかし教会は、ヒューマニズムからの問いに答えることが第一の責務ではありません。教会は、何よりもまず神の問いに答える責務があります。お前はキリストの教会として、キリストを土台としているか、と神は私たちに問うておられる。そのことを無視したならば、この世界の問いに例え答えたとしても、それが何の役に立つのでしょうか。
教会は世を畏れず、ただ神を畏れます。しかし実際のところ、世を畏れないで済むのは、神を畏れているときだけです。私たちが世間の目や評価、問いを畏れ、それに答えることを自分の責任とするのではなく、神がキリストの存在を通して私たちのあり方を問う問いに答えようと願うとき、私たちはまさにキリストの教会として生き始めているのです。キリストは私たちの足を洗い、私たちに仕え、愛し、私たちのためにすべてを与え尽くしてくださいました。このキリストを土台として建てられたという事実自体が、神さまから私たちへの問いであり、私たちの存在する理由なのです。