2022年4月6日水曜日

2022年4月6日の聖句

誰が主の霊を計り、助言者として主に教えたのか。(イザヤ40:13)
ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。神の裁きのいかに究め難く、その道のいかにたどり難いことか。(ローマ11:33)

神さまの富、知恵、知識の深さは、私たち人間には計りがたく、たどることができない。神の裁きに助言することのできる人など、どこにもいない。「誰が主の霊を計り、助言者として主に教えたのか。」
ところが、実にしばしば、自分は神さまよりも知恵があると私たちは思い込みます。そう思っていなくても、実はそう思っているかのように振る舞ったり、口にしたりします。神さまのなさることに注文を付けたり、バツ印を付けたり。
一方では、旧約聖書の例えば詩編などを見ると、神さまに食いかかるような祈りの言葉がたくさんあります。「なぜですか」「いつまでですか」と叫びます。あるいはヨブも言います。「私は知りたい。どうしたら、私はその方に会えるのか、御座にまで行けるのか。私は御前で訴えを並べ、口を極めて抗議したい。(ヨブ23:3~4)」ヨブも、詩編の祈り手たちも、決して上品にとどまるようなことはせず、神さまにくってかかるような激しい言葉を口にしています。特にヨブについては傲慢だというような評価をする人もいますが、私はそう思いません。実際に、ヨブ記の最後でも神さまはヨブを認めておられるのです。神さまはご自身にくってかかるような激しい言葉を受け入れてくださいます。
しかし他方で、まるで主の助言者であるかのように振る舞うことは、人間として、私たちにはできません。陶器が陶工に向かって意見することができないのと同じように、なぜ私をこのように作ったのかと不平を言うことができないのと同じように。
そうすると、急所は神さまへの信頼です。詩編の祈り手にしても、ヨブにしても、神さまを深く信頼しているからこそ生まれる激しい言葉だったのではないでしょうか。神さまの愛や正義を深く信頼し、そこに賭けて生きているからこそ、他ならぬ神さまに食ってかかる。他の場所に保険を掛けるようなことをしないからです。
「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。神の裁きのいかに究め難く、その道のいかにたどり難いことか。」この言葉には神さまのなさることへの深い驚きがあります。私の思いを超え、願いを超え、私の可能性を超えて働かれる神の御業への深い驚きと信頼。ここに聖書の祈りの秘儀があるのです。

2024年3月28日の聖句

正義は国を高める。罪は民の恥となる。(箴言14:34) イエスはそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。目的の場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。(ルカ22:39~40) 主イエス・キリストは、この夜も「いつ...