2022年4月7日木曜日

2022年4月7日の聖句

お前は神によって助けられ、全能者によって祝福される。(創世記49:25)
そうすることによって、私たちは自分が真理に属していることを知り、心に確信を抱くことができます。たとえ自分の心が責めたとしても、神は私たちの心よりも大きな方であり、すべてをご存じだと。(1ヨハネ3:19~20)

神さまが私たちを助け、全能者が祝福してくださっていることは、私たちが信ずべき事柄です。しかしそれ以上に、神がそうしてくださっているという「事実」です。神の祝福は信ずべきことですが、例え私たちが信じなかったとしても、神の祝福や助けという事実は変わることがありません。どのようなときにも、私がどのようなものであったとしても、神さまの側の事実には揺らぎがないのです。
「私たちは自分が真理に属していることを知り」と言っています。これはたいへんな言葉です。真理に属している。口幅ったくて、おいそれと人に言うことなんてできません。「私は真理に属しています」だなんて、隣近所の人にでも言ったら、頭がおかしくなったと思われるかも知れません。しかし、これも事実に属する事柄です。私たちは、事実として、真理に属している。神が私たちを真理の中に引き入れてくださったからです。神がしてくださったこと、神の側の事実だから、心に確信を抱くことができる。私たちのありよう以上の事柄、神がしてくださった事柄だからです。
「私は真理に属しています」と誰かに言ったときに、もしかしたら好奇な目で見られるかも知れない。しかし本当は、他人の目の問題ではないのだと思います。自分自身、正直に省みれば、とても真理に属しているとは言えないことを曲がりなりにも知っています。自分が知る自分の実態は、聖書の宣言とはあまりにも違う。聖書が「お前は真理に属している、神がお前を守り、全能者がお前を祝福している」と言っているこの宣言は、私たちの実態とはあまりにもかけ離れているように思えます。
だからこそ、「たとえ自分の心が責めたとしても、神は私たちの心よりも大きな方であり、すべてをご存じだ」と聖書は言います。神さまは私たちの心よりも大きく、すべてをご存じ。私以上に私を知っているし、ご自分の御業の確かさをよくご存じです。やはり、この事実は私に依っているのではない、ひたすら神の御業・・・。私たちには祝福を「頂く」という謙遜さも、大切なのではないでしょうか。

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...