あなたが水の中を渡るとき、私はあなたと共にいる。そして大河を渡るときも、大河はあなたを溺死させない。火の中を行くときもあなたは燃えず、炎はあなたを焦がさない。(イザヤ43:2)
何がそんなに怖いのか、疑い深い者たちよ。(マタイ8:26)
とても正直に告白すると、私はとても臆病です。臆病は疑いにすぐにつながりますし、疑いは不信仰です。ですから臆病は褒められたものではないし、信仰と対立する心です。決して正当化できません。しかし、自分という人間を考えると、正直に言って臆病であることを否定することはできません。
主イエスは言われます。「何がそんなに怖いのか、疑い深い者たちよ」と。これは、弟子たちが主イエスと一緒に舟に乗り込んだときのことです。激しい嵐が舟を襲い、舟は波にのまれそうになりました。ところが主イエスは眠っておられた。弟子たちは怖くてたまらないので、主イエスさまを起こします。するとイエスさまが言われるのです。「何がそんなに怖いのか、疑い深い者たちよ。」そして、風と湖を叱って、嵐を鎮めてくださいました。
弟子たちの臆病は、不信仰でした。彼らはイエスさまが寝ていて何もしてくださらないと信じ込んでいましたが、本当に眠っていたのは弟子たちの信仰でした。主が共にいてくださるというのは、主が寝ていて何もしてくれないという不信仰に打ち勝つことです。主が寝ているというのは、私たちの目に映る状況でもあります。イエスさまが私たちと共にいてくださるというのは、信仰の言葉としては知っていても、リアリティがない。本当に共にいるのかよく分からない。イエスさまは何もしてくださらない。それは、弟子たちに襲いかかるのと同じ不信仰です。しかし実のところ、舟の中に主はおられるのです。
「あなたが水の中を渡るとき、私はあなたと共にいる。そして大河を渡るときも、大河はあなたを溺死させない。火の中を行くときもあなたは燃えず、炎はあなたを焦がさない。」この言葉のいちばん大切なポイントは、「私はあなたと共にいる」という言葉です。神さまが共にいてくださるというのは、本当に力強く、私たちの恐怖心や疑いの入る余地のない事実です、本来は。どうかこの疑い深い、不信仰な私を救ってください、私の恐れや疑いの嵐を鎮めてください、とひたすら祈ります。主イエスのみ声が、私の内に騒ぎ立つ不信仰の嵐を、必ず静かにしてくださることを信じて。
何がそんなに怖いのか、疑い深い者たちよ。(マタイ8:26)
とても正直に告白すると、私はとても臆病です。臆病は疑いにすぐにつながりますし、疑いは不信仰です。ですから臆病は褒められたものではないし、信仰と対立する心です。決して正当化できません。しかし、自分という人間を考えると、正直に言って臆病であることを否定することはできません。
主イエスは言われます。「何がそんなに怖いのか、疑い深い者たちよ」と。これは、弟子たちが主イエスと一緒に舟に乗り込んだときのことです。激しい嵐が舟を襲い、舟は波にのまれそうになりました。ところが主イエスは眠っておられた。弟子たちは怖くてたまらないので、主イエスさまを起こします。するとイエスさまが言われるのです。「何がそんなに怖いのか、疑い深い者たちよ。」そして、風と湖を叱って、嵐を鎮めてくださいました。
弟子たちの臆病は、不信仰でした。彼らはイエスさまが寝ていて何もしてくださらないと信じ込んでいましたが、本当に眠っていたのは弟子たちの信仰でした。主が共にいてくださるというのは、主が寝ていて何もしてくれないという不信仰に打ち勝つことです。主が寝ているというのは、私たちの目に映る状況でもあります。イエスさまが私たちと共にいてくださるというのは、信仰の言葉としては知っていても、リアリティがない。本当に共にいるのかよく分からない。イエスさまは何もしてくださらない。それは、弟子たちに襲いかかるのと同じ不信仰です。しかし実のところ、舟の中に主はおられるのです。
「あなたが水の中を渡るとき、私はあなたと共にいる。そして大河を渡るときも、大河はあなたを溺死させない。火の中を行くときもあなたは燃えず、炎はあなたを焦がさない。」この言葉のいちばん大切なポイントは、「私はあなたと共にいる」という言葉です。神さまが共にいてくださるというのは、本当に力強く、私たちの恐怖心や疑いの入る余地のない事実です、本来は。どうかこの疑い深い、不信仰な私を救ってください、私の恐れや疑いの嵐を鎮めてください、とひたすら祈ります。主イエスのみ声が、私の内に騒ぎ立つ不信仰の嵐を、必ず静かにしてくださることを信じて。