私たちにはみな、一人の父がいるのではないのか。私たちをつくられたのは、一人の神ではないのか。なぜ私たちはお互いに蔑むのか。(マラキ2:10)
謙虚になり、他人を自分自身よりも優れていると重んじなさい。(フィリピ2:3)主イエスさまは私たちに「父よ」と祈ることを教えてくださいました。「アッバ、父よ」と、主イエス御自身が祈っておられた。その祈りを口伝えにして私たちにも教え、神が私たちも「父よ」と祈ることを喜んで受け入れてくださっていることを、主イエスは知らせてくださったのです。
主イエスが私たちに知らせてくださった父としての神さまのお姿は、慈しみと愛に満ちたお姿です。父の財産の分け前をもらったと思ったら遠い外国に出て行ってしまって、何もかも失って、惨めにとぼとぼ帰ってくる息子がまだ遠く離れていたのに走り寄って抱きしめる父です。その兄が、弟への父の憐れみを受け入れられずに外に立って怒っていたときに、兄のところへ出て行って一緒に喜ぼうと招きなだめてくださる父です。
私たちは、神さまの慈しみを信じ、神さまの愛を信じて「父よ」と祈ります。私たちが神の子とされたことは、神様ご自身が私たちの口に「父よ」と祈る言葉を授けてくださっている事実から分かります。
私たちにはみな、一人の父がいる。私たちは、一人の神に造られた。私たちに命を与え、私たちをこのような私としてつくり、今生かしてくださっているのは、同じ神さまです。このお方の御手の中で、私も、私の隣人も生かされている。その事実が私たちの間にある蔑みの心を取り去り、私たちを謙虚にするはずだ、と聖書は言います。神さまの慈しみによって、私たちは自分の心に救う傲慢や他人を見下す卑しさから解放されるのです。
「他人を自分自身よりも優れていると重んじなさい。」それは、自分はたいしたことないとわきまえることによってではなく、あるいは他の人を立てる奥ゆかしさによってではなく、私たちお互いをお造りになった神さまの父としての慈しみを信じるときに生まれます。父の慈愛だけが、あの弟息子の父を捨てる罪深さや、父の憐れみを拒む兄息子の傲慢さからの救いです。私たちは、神の子。「天にまします我らの父よ」と、祈る群れなのです。