2022年10月13日木曜日

2022年10月13日の聖句

主よ、私たちを御もとに立ち帰らせてください。私たちの日々を新たにしてください。(哀歌5:21)
私たちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたとき、神は、私たちがなした義の行いによってではなく、ご自分の憐れみによって、私たちを救ってくださいました。ご自分の憐れみにより、私たちは再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて救われたのです。(テトス3:4~5)

神の憐れみによって。それが、聖書の伝える信仰のすべてです。
しかし改めて考えてみると、「憐れみ」という言葉は、相手をかわいそうだ、気の毒だと思うことです。同情することです。神の憐れみということは、神さまが私たちをかわいそうだと思って同情しているということです。つまり、私たちは神さまからご覧になったときにかわいそうな状態になっている、ということになります。
これは、私たちの通常の感覚とはぶつかるのではないでしょうか。自分がかわいそうに思われているというのは私たちの誇りとぶつかります。プライドが許さないことです。自分の惨めなことを認めるのは、簡単なことではありません。場合によっては、卑屈になって自分はなんてかわいそうなのだと、自分で自分を憐れむということもあるかも知れない。しかし、自分への憐れみやそれを生み出す卑屈さと、自分を誇るプライドとは表裏一体です。第一、聖書が言うのは「神の憐れみ」であって、「自分で自分を憐れむ」ということではないのです。
「主よ、私たちを御もとに立ち帰らせてください。私たちの日々を新たにしてください。」この祈りの言葉は、自分たちの罪が生み出した荒廃の中で献げられたものです。自分たちが滅ぼしてしまった国の廃墟の中での呻きです。私たちは、本当に破滅しないとなかなか自分が神さまの御前にどれだけ憐れで惨めな存在なのかが分かりません。しかし神さまは私たちが罪の中でねじ曲がってしまうことを「仕方がない」とはおっしゃらないし、私たちが互いに愛に反する心に生きることの惨めさを深刻にご覧になっている。神さまを、隣人を愛することに失敗している私たちは、本当に惨めな存在です。神さまはそんな私たちの惨めな姿を憐れみ、そんな私たちを救うために、私たちの惨めさを洗い流してくださいます。「ご自分の憐れみにより、私たちは再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて救われたのです。」
私たちは自分で自分を憐れむことによってではなく、自分の力によってどうにかすることでもなく、ただ神の憐れみによって惨めさを洗っていただき、新しい姿になったのです。今日生きているのは、新しい私です。

2024年4月19日の聖句

ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした。(創世記6:22) (イエスの言葉)「私のこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」(マタイ7:24) 風水害や地震などの自然災害の多い場所に住んでいると、今日の主イエスの言葉はよく分かります。「岩の...