2022年11月1日火曜日

2022年11月1日の聖句

「喜べ、楽しくあれ、娘シオンよ。見よ、私は来てあなたたちのところに住むからだ」と主は言われる。(ゼカリヤ2:14)
ほめたたえられますように、イスラエルの神、主は。ご自分の民を訪れ、解放されたからだ。(ルカ1:68)

聖書はとても不思議な書物です。私たちのニーズから生まれたものではありません。もしもそうだとしたら、聖書にはもっと私たちが心地よくなるような言葉や、役に立つ人生訓ばかりが散りばめられていたに違いないと思います。
エジプトから脱出した神の民は、荒れ野の旅を始めました。旅の最初の目的地であるシナイ山に着くと、彼らの指導者モーセは山に登り、なかなか帰って来ません。しびれを切らした民は、モーセの兄アロンに要求します。「さあ、私たちに先立って進む神々を私たちのために造ってください。私たちをエジプトの地から導き上った人、あのモーセがどうなったのか、分からないからです(出32:1)」。彼らは、モーセがなかなか帰って来てくれない、しかもこの荒れ野の真ん中でどうしたら良いか分からない、エジプトにも行けず、約束の地にも行けない・・・という不安を解消するために、自分たちの願う神々を造り上げようとしました。自分のニーズを満たす神を生み出した。自分のニーズから始まる信仰を、聖書は偶像崇拝と呼びます。
ところが聖書の神さまは、偶像ではありません。私たちのニーズを超えています。私たちが神さまを造ったのではなく、神さまが私たちをお造りになった。この方は聖なる方。私たちが支配し、思い通りにすることができない方です。
しかし、神さまは遠く近づきがたく、私たちと無関係の方ということでもない。今日の二つの御言葉はそのことを語ります。「『喜べ、楽しくあれ、娘シオンよ。見よ、私は来てあなたたちのところに住むからだ』と主は言われる。」「ほめたたえられますように、イスラエルの神、主は。ご自分の民を訪れ、解放されたからだ。」どちらも、神さまが私たちのところを訪れてくださる、と言っています。私たちもこの世界もお造りになった方、聖なる方、ただおひとりの神。この方は私たちを訪れてくださる方。私たちのところへ来てくださる方です。この方は、私たちと出会ってくださる神さまです。
神さまが私のところへ来てくださった。だから「喜び、楽しくあれ」と言われているとおり、私たちは喜びます。愛する神さまが、私たちの大好きな主イエスさまが、今日も私の側近くへ来てくださっているのですから。

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...