主はこう言われる:私は恵みのときにあなたに応え、救いの日にあなたを助けた。(イザヤ49:8)
見なさい。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。(ルカ17:21)
キリストが私たちに示してくださった救いは、神の国が来る、という救いです。「時は満ち、神の国は近づいた」というのは主イエスの宣教の第一声です。神の国は近づいた。救いは来た。キリストはそのようにして福音を宣言なさいました。
もう、神の国は来ている。主イエスは神様の起こす救いの現実、私たちの目にはまだ見えていない救いの現実を見せてくださいます。そうすると、私たちはまだそれを見ていないので、現実的ではないなと思います。聖書はそう言っているかも知れないけれど、私の生活に何の意味があるのと、つい思い込んでしまいます。神の国はどこに来ているのか。あそこか、ここか・・・?一体どこを見たら、神様の救いが分かるのか。納得できるのか。
しかし、主イエスは、神の国は「あそこにある」とか「ここにある」と言って探し回る必要はないと言われます。「見なさい。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」
神の国はあなたの心の中にあります、とは主イエスはおっしゃいませんでした。あなたの周りにあるともおっしゃいませんでした。「あなた方のただ中に」、です。独りぼっちの私ではなく、共に生きる神の民、教会に神の国がもう来ている、と言われるのです。
私たち教会の営みは、キリストを礼拝し、キリストの言葉を聞き、キリストのお体であるパンとキリストの血である杯に共にあずかります。独りぼっちでそれをするのではなく、キリストが造ってくださる共同体の中で、私たちは福音を味わいます。キリストに共にあずかるとき、私たちは神の国を味わっています。私たちは救いの前味を既に味わっているのです。
「私は恵みのときにあなたに応え、救いの日にあなたを助けた。」神の下さる恵みの日、私たちはキリストを賛美します。神の起こしてくださる救いの日、私たちは神の助けを喜びます。神様の御前にある私たちを、キリストは決してお忘れになることがありません。私たちは主キリストを共に喜ぶことによって、一つになるのです。何とすばらしい出来事でしょうか!
見なさい。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。(ルカ17:21)
キリストが私たちに示してくださった救いは、神の国が来る、という救いです。「時は満ち、神の国は近づいた」というのは主イエスの宣教の第一声です。神の国は近づいた。救いは来た。キリストはそのようにして福音を宣言なさいました。
もう、神の国は来ている。主イエスは神様の起こす救いの現実、私たちの目にはまだ見えていない救いの現実を見せてくださいます。そうすると、私たちはまだそれを見ていないので、現実的ではないなと思います。聖書はそう言っているかも知れないけれど、私の生活に何の意味があるのと、つい思い込んでしまいます。神の国はどこに来ているのか。あそこか、ここか・・・?一体どこを見たら、神様の救いが分かるのか。納得できるのか。
しかし、主イエスは、神の国は「あそこにある」とか「ここにある」と言って探し回る必要はないと言われます。「見なさい。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」
神の国はあなたの心の中にあります、とは主イエスはおっしゃいませんでした。あなたの周りにあるともおっしゃいませんでした。「あなた方のただ中に」、です。独りぼっちの私ではなく、共に生きる神の民、教会に神の国がもう来ている、と言われるのです。
私たち教会の営みは、キリストを礼拝し、キリストの言葉を聞き、キリストのお体であるパンとキリストの血である杯に共にあずかります。独りぼっちでそれをするのではなく、キリストが造ってくださる共同体の中で、私たちは福音を味わいます。キリストに共にあずかるとき、私たちは神の国を味わっています。私たちは救いの前味を既に味わっているのです。
「私は恵みのときにあなたに応え、救いの日にあなたを助けた。」神の下さる恵みの日、私たちはキリストを賛美します。神の起こしてくださる救いの日、私たちは神の助けを喜びます。神様の御前にある私たちを、キリストは決してお忘れになることがありません。私たちは主キリストを共に喜ぶことによって、一つになるのです。何とすばらしい出来事でしょうか!