エフライムは私のかけがえのない息子、喜びをもたらすこどもではないのか。しばしば脅しもしたので、かえって思いをかけずにはいられない。だから、私のこころは砕かれ、憐れまずにはいられない、と主は言われる。(エレミヤ31:20)
しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを生かしてくださいました。(エフェソ2:4~5)
今日の旧約聖書の御言葉は、ドイツ語の聖書を日本語に翻訳したものだそうです。聖書協会共同訳では次のように翻訳しています。
しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを生かしてくださいました。(エフェソ2:4~5)
今日の旧約聖書の御言葉は、ドイツ語の聖書を日本語に翻訳したものだそうです。聖書協会共同訳では次のように翻訳しています。
「エフライムは私の大事な子ではないのか。あるいは喜びを与えてくれる子どもではないのか。彼のことを語る度に、なおいっそう彼を思い出し、彼のために私のはらわたはもだえ、彼を憐れまずにはいられないーー主の仰せ。」
冒頭にあるドイツ語からの翻訳では「(神が)しばしば(エフライムを)脅しもした」とありましたが、聖書協会共同訳では「彼のことを語る度に」と翻訳されているので、受ける印象がずいぶんと変わってきます。「脅す」と「語る」というのでは全然意味が違います。なぜここまで極端に異なる翻訳が可能になるのでしょうか。
実はここは少し難しいところです。もともとは「言う」とか「語る」という動詞が使われています。ただ、動詞の形が強意形という、動詞の意味を強める形になっています。この動詞が強意形で使われると、敵対的な意味で語るというニュアンスを含む場合もあります。ドイツ語訳はそちらの意味で解釈して「脅す」としたということなのでしょう。また、新共同訳もここは「退ける」と訳していたので、ドイツ語と同じ解釈をしています。聖書協会共同訳や他の英訳などでは単に「語る」という解釈を採用していました。どちらも可能です。
細かい話が長くなってしまいました。いずれにしても今日の御言葉の中心は、神さまのあわれみであることは間違いありません。あわれみを受ける私たちの有り様は、それにふさわしくなくむしろ神の怒りが適当な現実です。しかしそれに勝る神のあわれみは、ご自身の御心を砕き、痛めながら私たちに向けられています。神さまからご覧になれば、本来私たちに穏やかに話すことよりも、脅し、裁くことが正当です。しかしそれを凌駕する途方もないあわれみのために、私たちを愛してくださいました。背きの中に死んでいた私たちを生かしてくださいました。私たちは神のあわれみと愛の途方もなさの中で、今日という新しい一日を始めていくのです。
冒頭にあるドイツ語からの翻訳では「(神が)しばしば(エフライムを)脅しもした」とありましたが、聖書協会共同訳では「彼のことを語る度に」と翻訳されているので、受ける印象がずいぶんと変わってきます。「脅す」と「語る」というのでは全然意味が違います。なぜここまで極端に異なる翻訳が可能になるのでしょうか。
実はここは少し難しいところです。もともとは「言う」とか「語る」という動詞が使われています。ただ、動詞の形が強意形という、動詞の意味を強める形になっています。この動詞が強意形で使われると、敵対的な意味で語るというニュアンスを含む場合もあります。ドイツ語訳はそちらの意味で解釈して「脅す」としたということなのでしょう。また、新共同訳もここは「退ける」と訳していたので、ドイツ語と同じ解釈をしています。聖書協会共同訳や他の英訳などでは単に「語る」という解釈を採用していました。どちらも可能です。
細かい話が長くなってしまいました。いずれにしても今日の御言葉の中心は、神さまのあわれみであることは間違いありません。あわれみを受ける私たちの有り様は、それにふさわしくなくむしろ神の怒りが適当な現実です。しかしそれに勝る神のあわれみは、ご自身の御心を砕き、痛めながら私たちに向けられています。神さまからご覧になれば、本来私たちに穏やかに話すことよりも、脅し、裁くことが正当です。しかしそれを凌駕する途方もないあわれみのために、私たちを愛してくださいました。背きの中に死んでいた私たちを生かしてくださいました。私たちは神のあわれみと愛の途方もなさの中で、今日という新しい一日を始めていくのです。