2023年1月21日土曜日

2023年1月21日の聖句

わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。(ヨブ1:21)
主イエス・キリストを身にまといなさい。(ローマ13:14)

私たちが毎日読んでいる『日々の聖句』では、旧約と新約から一箇所ずつの御言葉が割り振られています。旧約に従って、新約の御言葉が選ばれているようです。今日の二つの御言葉の組み合わせは、私はこれまで考えたことがありませんでした。しかし、すばらしいと思います。目が開かれるような思いになりました。
今日の旧約聖書はヨブ記の御言葉です。ヨブは無垢な正しい人でしたが、身に覚えのない数々の不幸に見舞われました。子どもたちを全員失い、財産も失いました。そして自分自身、全身にひどい皮膚病が起こって苦しめられました。実は、サタンが神に、あのヨブのような無垢で正しく見える人も、神が彼に恵みを与えて幸福な人生を送らせているから神を信じているにすぎない、不幸に陥ればすぐに神を呪うと言った。そこで神が、お前の思うとおりに彼にしてみろとおっしゃって、ヨブは苦しむことになりました。しかしそのようなことをヨブ自身は知りません。ヨブは全く理由も分からない、理不尽な苦しみにさいなまれた。しかし彼は「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう」と言い、神を呪いませんでした。
「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。」それは、本当のことです。すべてを奪われ、考えられないほどの不幸に襲われながら、何も持たず裸で死のうとヨブは言います。私たちが生まれてから得たものは、自分で獲得したような気持ちになっていてもすべては神の恵みによって与えられたものです。ところがすぐに自分のもの、自分だけのものと思い込んでしまいます。しかし、裸で生まれた者なのだから、何も持たずに死ぬことが本当のことです。
私たちは、生まれたときも死ぬときにも、無力です。何も持ってくることも、持っていくこともできません。自分の生まれることも死ぬこともどうすることもできません。それなのに、神さまは私たちにキリストを着せてくださいました。洗礼を受けたとき、私たちはキリストを着ました。何とその衣は、私たちが死んでも朽ちません。いつまでも着たままです。火葬されても土葬されても、その衣だけは腐ってしまうことがない。なぜなら、私たちは何も持たず無力ですが、私たちを覆うキリストは墓から復活なさった方だからです。私たちは死を越えて輝くキリストを自分の衣として着ている。
ですから、私たちは安心して裸で死ぬことができます。何も持っていなくても大丈夫です。神さまが私たちにキリストを着せてくださっているのですから。

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...