今週の聖句:人々が東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓につきます。(ルカ13:29)
今日の聖句:
あなたには、主よ、並ぶ者がいません。あなたは偉大で、あなたの名前は偉大です。あなたが御業で証明します。(エレミヤ10:6)
だれも、すでに据えられている土台以外の物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。(1コリント3:11)
偉大な方、偉大なお名前をもつ方。この方には他の誰も並び立つ者がない。私たちの信じる神様はそういう方です。この世界を造った方、この世界の王でいらっしゃる方。どのような人間も、自然の事物も、歴史の出来事も、この神さまに並ぶことはできない。例えそれがどんなに偉大な業績を残した人物であろうと、有名であろうと、権勢を誇ったのであろうと、すさまじい宗教的指導者であろうと。
「だれも、既に据えられている土台以外の物を据えることはできない」と使徒パウロは言います。パウロには、実際に教会に既に据えられた土台であるキリスト以外の何かを土台にしようとしている事態が見えていたのでしょう。コリントの信徒への手紙の一節ですから、コリント教会にそのようなことが実際に起こっていたに違いありません。そうすると、エレミヤ書が言っている、他に誰も並び立つことのできない神の偉大さということが、空文化してしまいます。意味のないお題目になってしまいます。つまり、神さまが偉大だとか、唯一の神だとか、並び立つ者のない方だとか、この天と地をお造りになった方だとか、そういうことはどれも実際的な意味を持たなければ仕方がないことだということだと思います。
私たちの実際の生活にとって、神が偉大な方だという事実はどのような意味を持っているでしょうか。私たちの毎日の生活は、神の偉大さを前にして膝をかがめるものになっているのでしょうか。コリントの信徒への手紙では、キリストこそ土台という話をするにあたって、とても丁寧にそのキリストは十字架にかけられた方だという話をしています。十字架にかけられ、私たちのために死なれた方が私たちの土台。私たちのために弱くなってくださった神の子が私たちの土台。その他にこの方に並び立つ者はいない。私たちの今日一日を意義あるものとする土台は、十字架にかけられたキリストです。その事実を前に、驚きつつ新しい一日を始めましょう。
今日の聖句:
あなたには、主よ、並ぶ者がいません。あなたは偉大で、あなたの名前は偉大です。あなたが御業で証明します。(エレミヤ10:6)
だれも、すでに据えられている土台以外の物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。(1コリント3:11)
偉大な方、偉大なお名前をもつ方。この方には他の誰も並び立つ者がない。私たちの信じる神様はそういう方です。この世界を造った方、この世界の王でいらっしゃる方。どのような人間も、自然の事物も、歴史の出来事も、この神さまに並ぶことはできない。例えそれがどんなに偉大な業績を残した人物であろうと、有名であろうと、権勢を誇ったのであろうと、すさまじい宗教的指導者であろうと。
「だれも、既に据えられている土台以外の物を据えることはできない」と使徒パウロは言います。パウロには、実際に教会に既に据えられた土台であるキリスト以外の何かを土台にしようとしている事態が見えていたのでしょう。コリントの信徒への手紙の一節ですから、コリント教会にそのようなことが実際に起こっていたに違いありません。そうすると、エレミヤ書が言っている、他に誰も並び立つことのできない神の偉大さということが、空文化してしまいます。意味のないお題目になってしまいます。つまり、神さまが偉大だとか、唯一の神だとか、並び立つ者のない方だとか、この天と地をお造りになった方だとか、そういうことはどれも実際的な意味を持たなければ仕方がないことだということだと思います。
私たちの実際の生活にとって、神が偉大な方だという事実はどのような意味を持っているでしょうか。私たちの毎日の生活は、神の偉大さを前にして膝をかがめるものになっているのでしょうか。コリントの信徒への手紙では、キリストこそ土台という話をするにあたって、とても丁寧にそのキリストは十字架にかけられた方だという話をしています。十字架にかけられ、私たちのために死なれた方が私たちの土台。私たちのために弱くなってくださった神の子が私たちの土台。その他にこの方に並び立つ者はいない。私たちの今日一日を意義あるものとする土台は、十字架にかけられたキリストです。その事実を前に、驚きつつ新しい一日を始めましょう。