義は命へと導く。しかし悪を追求することは死へと導く。(箴言11:19)
義に飢え渇くものは幸いです。その人たちは満ち足りるからです。(マタイ5:6)
昔、ボーイスカウトに所属していました。5年生の秋から入団してしばらく経って、小学校6年生か中学校1年生かのころのことです。毎年春と夏に何泊かのキャンプをしていましたが、夏のキャンプのとき、その最終日。テントを片付け、いよいよ帰ろうとバスに向かいました。テントを張った野営場は、確か川の側だったかと思いますが、バスに乗るために急な斜面を登らなければなりませんでした。すごく暑い日でした。何泊分もの重いキャンプ用具を背負って坂を登って、本当に暑くて喉が渇いて仕方がなかった。水筒も空っぽ、喉が渇いても飲むものもない。あの夏の日の喉が渇いて仕方がなかった記憶が、今でも鮮明に残っています。
「義に飢え渇くもの」と言っています。渇くというのはとても辛いことです。喉が焼けるようになって、カサカサで、苦しくて仕方がない。たった一杯の水でもいいから、飲ませてほしい。そうやって飢え渇く、しかも義に飢え渇くものは幸いだ、と主イエスは言われます。水を求めるように義を求める。神さまの義、神さまの義しさ、正義を求める。
思えばこの世界には理不尽なことがたくさんあるし、デタラメな出来事がたくさんあります。神さま、どうしてですかと問わねばならないこともたくさんあります。そんなとき、私たちは渇いているでしょうか。もっと正確に言えば、義に渇いているでしょうか。何か神さまとは別のものでその渇きを満たしたつもりになってはいないでしょうか。
本当に喉が渇ききって焼けてしまったとき、ビールを飲んでその渇きを満たそうとしても、その渇きは本当には癒やされません。お酒は却って脱水を促してしまいます。飲んだ瞬間は潤った気持ちになれても、根本的な渇きの解決にはならない。結局、自分でも知らない内にもっと渇いてしまいます。渇きを満たすためには水が必要です。そして私たちの魂の渇きは、神さまの義以外のものでは満たされないのです。
「義に飢え渇くものは幸いです。その人たちは満ち足りるからです。」義を求め、義に渇くもの。その人たちこそが本当に満ち足りるのだ、と主イエスは言われます。神さまはご自分を求めるものを決して放ってはおかれないのです。義は私たちを命へと導く。主なる神さまこそが、私たちを潤すまことの救いです。
義に飢え渇くものは幸いです。その人たちは満ち足りるからです。(マタイ5:6)
昔、ボーイスカウトに所属していました。5年生の秋から入団してしばらく経って、小学校6年生か中学校1年生かのころのことです。毎年春と夏に何泊かのキャンプをしていましたが、夏のキャンプのとき、その最終日。テントを片付け、いよいよ帰ろうとバスに向かいました。テントを張った野営場は、確か川の側だったかと思いますが、バスに乗るために急な斜面を登らなければなりませんでした。すごく暑い日でした。何泊分もの重いキャンプ用具を背負って坂を登って、本当に暑くて喉が渇いて仕方がなかった。水筒も空っぽ、喉が渇いても飲むものもない。あの夏の日の喉が渇いて仕方がなかった記憶が、今でも鮮明に残っています。
「義に飢え渇くもの」と言っています。渇くというのはとても辛いことです。喉が焼けるようになって、カサカサで、苦しくて仕方がない。たった一杯の水でもいいから、飲ませてほしい。そうやって飢え渇く、しかも義に飢え渇くものは幸いだ、と主イエスは言われます。水を求めるように義を求める。神さまの義、神さまの義しさ、正義を求める。
思えばこの世界には理不尽なことがたくさんあるし、デタラメな出来事がたくさんあります。神さま、どうしてですかと問わねばならないこともたくさんあります。そんなとき、私たちは渇いているでしょうか。もっと正確に言えば、義に渇いているでしょうか。何か神さまとは別のものでその渇きを満たしたつもりになってはいないでしょうか。
本当に喉が渇ききって焼けてしまったとき、ビールを飲んでその渇きを満たそうとしても、その渇きは本当には癒やされません。お酒は却って脱水を促してしまいます。飲んだ瞬間は潤った気持ちになれても、根本的な渇きの解決にはならない。結局、自分でも知らない内にもっと渇いてしまいます。渇きを満たすためには水が必要です。そして私たちの魂の渇きは、神さまの義以外のものでは満たされないのです。
「義に飢え渇くものは幸いです。その人たちは満ち足りるからです。」義を求め、義に渇くもの。その人たちこそが本当に満ち足りるのだ、と主イエスは言われます。神さまはご自分を求めるものを決して放ってはおかれないのです。義は私たちを命へと導く。主なる神さまこそが、私たちを潤すまことの救いです。