主の使いはエリヤに触れて言った。「起きて、食べなさい。あなたは長い道のりを控えているのだから。」(列王記上19:7)
萎えた手と揺らぐ膝を強くし、自分たちの足で確固とした歩みを進めなさい。(ヘブライ12:12~13)
エリヤは、イスラエルにアハズという王がいた時代の預言者です。アハズ王にはイゼベルという妃がいました。外国から輿入れしましたが、イゼベルは自分の国の神々も一緒に持ち込み、アハズはイゼベルの言うままに主なる神を捨てて外国の神々バアルをイスラエルに導入します。イスラエルの信仰は壊滅的な状態になりました。預言者エリヤは繰り返し主なる神に立ち帰るように忠告し、警告しました。そのため、彼はイゼベルから激しく憎まれていました。
あるとき、エリヤは450人ものバアルの預言者らと対決し、これに打ち勝ちました。このときの出来事が決定的で、エリヤはイゼベルから執拗に命を狙われ、エリヤ自身も生きる気力を失ってしまいます。それで、エリヤは神さまに訴えたのでした。「主よ、もうたくさんです。私の命を取ってください。」エリヤは主なる神さまを信じる偉大な預言者、しかも旧約聖書を代表する預言者です。しかしそのエリヤも疲れ果て、絶望し、希死念慮に捕らわれたのです。
神さまは、そうやって希望を失ってしまう現実が私たちにはあることをよくご存じです。だから、聖書は言います。「萎えた手と揺らぐ膝を強くし、自分たちの足で確固とした歩みを進めなさい。」そしてそのために、神さまは私たちを助けてくださいます。
どん底にいたエリヤのために、神さまは何をしてくださったのか。「主の使いはエリヤに触れて言った。『起きて、食べなさい。あなたは長い道のりを控えているのだから。』」神さまはまずエリヤを食べさせて下さいました。これは、本当に私たちの現実に即しています。お腹が減ったままで絶望に打ち勝つのはとても難しい。神さまはエリヤのお腹を満たしてくださって、旅を続けさせ、ついにエリヤは神の山ホレブにたどり着きました。かつて、モーセが神さまから十戒を頂いた場所です。イスラエルの信仰の原点のような場所です。しかしそこに導くために、神さまはまずエリヤのお腹を満たしてくださったのです。私たちの心が大事なのと同じように、肉体も大事です。キリスト信仰は心の問題ではなく、心も体も含めたトータルな人間存在そのものの事柄です。
だからこそ、主イエスさま御自身、「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈ることを教えてくださいました。神さまは私たちの心にも肉体にも関心を持ち、私たちのまるごとを救うために、今日も御業をなさっているのです。
萎えた手と揺らぐ膝を強くし、自分たちの足で確固とした歩みを進めなさい。(ヘブライ12:12~13)
エリヤは、イスラエルにアハズという王がいた時代の預言者です。アハズ王にはイゼベルという妃がいました。外国から輿入れしましたが、イゼベルは自分の国の神々も一緒に持ち込み、アハズはイゼベルの言うままに主なる神を捨てて外国の神々バアルをイスラエルに導入します。イスラエルの信仰は壊滅的な状態になりました。預言者エリヤは繰り返し主なる神に立ち帰るように忠告し、警告しました。そのため、彼はイゼベルから激しく憎まれていました。
あるとき、エリヤは450人ものバアルの預言者らと対決し、これに打ち勝ちました。このときの出来事が決定的で、エリヤはイゼベルから執拗に命を狙われ、エリヤ自身も生きる気力を失ってしまいます。それで、エリヤは神さまに訴えたのでした。「主よ、もうたくさんです。私の命を取ってください。」エリヤは主なる神さまを信じる偉大な預言者、しかも旧約聖書を代表する預言者です。しかしそのエリヤも疲れ果て、絶望し、希死念慮に捕らわれたのです。
神さまは、そうやって希望を失ってしまう現実が私たちにはあることをよくご存じです。だから、聖書は言います。「萎えた手と揺らぐ膝を強くし、自分たちの足で確固とした歩みを進めなさい。」そしてそのために、神さまは私たちを助けてくださいます。
どん底にいたエリヤのために、神さまは何をしてくださったのか。「主の使いはエリヤに触れて言った。『起きて、食べなさい。あなたは長い道のりを控えているのだから。』」神さまはまずエリヤを食べさせて下さいました。これは、本当に私たちの現実に即しています。お腹が減ったままで絶望に打ち勝つのはとても難しい。神さまはエリヤのお腹を満たしてくださって、旅を続けさせ、ついにエリヤは神の山ホレブにたどり着きました。かつて、モーセが神さまから十戒を頂いた場所です。イスラエルの信仰の原点のような場所です。しかしそこに導くために、神さまはまずエリヤのお腹を満たしてくださったのです。私たちの心が大事なのと同じように、肉体も大事です。キリスト信仰は心の問題ではなく、心も体も含めたトータルな人間存在そのものの事柄です。
だからこそ、主イエスさま御自身、「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈ることを教えてくださいました。神さまは私たちの心にも肉体にも関心を持ち、私たちのまるごとを救うために、今日も御業をなさっているのです。