2023年2月9日木曜日

2023年2月9日の聖句

主なる神の前に静まれ。主の日は近づいているからだ。(ゼファニヤ1:7)
だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。(マタイ24:44)

主の日。主イエス・キリストが再び来られる日です。それは完成の日であり、裁きの日であり、救いの日です。そして、もしかしたら私たちの信仰生活の中でもっともリアリティを失っている日であるかも知れません。
聖書が書かれた時代、主の日はすぐにでも来ると考えられていました。すぐに主イエスは来て救いを完成してくださる。多くの人がそう信じ、待ち望んでいた。ところが、なかなか主イエスは来てくださらない。「終末の遅延」と言われたりもします。いつまで待っても来てくださらない主イエス。いつしか、主が再び来られるという知らせ自体がリアリティのない空手形のように扱われるようになった。あるいはそうでなければ、まるでファンタジーのように、非現実的な物語のように語られることにもなりました。いずれにしても、「主の日」が私たちの信仰生活に積極的な意味を持たなくなってしまったように思います。そしてそれはかなりまずいことだと思います。
クリストフ・ブルームハルトという、今から100年くらい前のドイツでとても大切な存在であった牧師がいます。この人は、毎晩、主がいつ来られてもはせ参じることができるように馬車の準備をしてから床に就いたそうです。主が来られることへの具体的な待望に生きていました。そうすると、自分の生き方が主を待ち望むということを基準に建て直されることになります。私の生き方は、主をお待ちするということにふさわしいのか。主イエスさまを待ち望む生活をしているのだろうか。それが自分を見つめる基準になります。
主の日、主が再び来られる日。それは、救いの完成の日です。主が再び来てくださらなければ、私たちは救われないのです。もしも主が来てくださらなかったら、私たちは救われないままになってしまう。だから、私たちは主を待ち望みます。そして、「来てください」と祈ります。
ですので、「主の日」は私たちにとっては議論や懐疑の対象ではなくて、待ち望み、それによって生活が見つめ直される、実際的な救いの目標です。主を待ち望みましょう。主は必ず約束の通りに来てくださいます。それがいつなのか、どのような形なのか、それは私たちには分かりません。しかし、私たちのために十字架にかけられ、葬られ、復活させられた方は、必ず私たちを完全に救うために再び来てくださいます。主を待ち望むことこそが、今日私たちの生きる意味なのです。

2024年4月25日の聖句

救いは主のもの。 あなたの民の上に祝福を。(詩編3:9) イエスは手を上げて彼らを祝福された。(ルカ24:50) 主イエス・キリストは復活して40日間弟子たちと共におられ、その後、天に昇って行かれました。その時、主イエスは手を上げて弟子たちを祝福し、その恰好のままで天に上げられて...