2023年3月11日土曜日

2023年3月11日の聖句

モーセの言葉:見よ、私は今日、あなたがたの前に祝福と呪いを置く。もし、今日私が命じる、あなたがたの神、主の戒めに聞き従うならば祝福を、もし、あなたがたの神、主の戒めに聞き従わなければ、呪いを置く。(申命記11:26~28)
イエスの言葉:あなたがたも、私の戒めを守るなら、私の愛にとどまっていることになる。(ヨハネ15:10)

主イエスが「私の戒め」と言っておられます。この戒めというのは、一般的な何かの戒めとか決まりということではなく、とても具体的な意味を持っています。この福音書で、主イエスは更に言われます。「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の戒めである。」主が私たちにしてくださったように私たちが互いに愛し合うこと。主イエスはそれをご自分の命じる戒めだと言われるのです。
私たちが互いに愛し合うなら、私たちは主イエス・キリストの愛にとどまっていることになる。ということは、私たちが互いに愛し合うとき、それは単に私たち相互の中に閉じた人間関係にとどまらず、主イエス・キリストとの関わりがそこに生まれてくることになります。私たちが互いに愛し合うとき、そこに主イエスがおられる。主イエスさまとの関わりの中で、私たちは互いに愛し合う。主イエスはそう言われます。主が間に立っていてくださるのでなければ、どうして私たちが真実に愛し合うことができるのでしょうか!
互いに愛し合うこと、それが神様が私たちに準備してくださった祝福の道です。愛は、確かに祝福です。それを否定する人はいないと思います。真実に互いのことを思いやって愛し合うこと、人間関係の中でそれに優る喜びはないのではないでしょうか。
しかし同時に私たちが悲しみを持って知っているのは、私たちの間でいかに愛が安売りされ、陳腐なものに成り下がっているか、ということです。愛は単なる美名、あるいは建前にすぎないと決めつけられているところがある。むしろお金による豊かさや競争の勝ち負けの方が現実的だとされているのではないか。もしもそうだとしたら、そこ既に呪いの現実があるのではないでしょうか。私たちの愛が愛ではない逆さまなものになってしまっている。私たちの罪が生み出す呪いの現実です。
だからこそ、キリストが私たちを愛してくださったようにという原点が欠かせないのです。キリストと出会い、神と出会うまで、私たちはまことの愛を知りませんでした。自分の中から、まことに愛と呼ぶのにふさわしいものなど出ては来ないからです。しかしキリストが私を愛し、愛し抜いてくださったから、私たちは初めて愛を知りました。しかも確かに知りました。この原点以外の別の場所から、私たちが愛を始めることはできないのです。

2024年4月19日の聖句

ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした。(創世記6:22) (イエスの言葉)「私のこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」(マタイ7:24) 風水害や地震などの自然災害の多い場所に住んでいると、今日の主イエスの言葉はよく分かります。「岩の...