今日、主に反逆して主に従うことをやめるなど、絶対にあり得ないことです。(ヨシュア22:29)
ある人たちの習慣に倣って集会をやめたりせず、かえって励まし合いましょう。(ヘブライ10:25)
ヘブライ人への手紙は著者も宛先も分からない手紙です。一つの推測では、アポロという伝道者がローマの教会に送ったものではないか、と考えられているようです。しかも、もともと説教として語った言葉だったのではないかと推測されていると聞きます。本当かどうかは分かりません。もしかしたらそうなのかも知れません。とても魅力的な想像です。
そうだとしたら、私たちにとっては身近な手紙です。ローマはキリスト者にとっては異教社会です。周りには同じ信仰の仲間が殆どいない。キリスト者として生きることに苦労しているマイノリティです。「ある人たちの習慣に倣って集会をやめたりせず、却って励まし合いましょう」という言葉も、そうすると、よく意味が分かります。日曜日にわざわざ時間を割いて礼拝に行くような習慣を持たない社会です。周りには誰もそういう人がいない。礼拝生活に生きることに意味なんて見出してはいない。そういう周囲の習慣に合わせて、礼拝をおろそかにする人が少なくなかったのでしょう。しかし、そうではなくて励まし合いなさい、と言うのです。
私たちにとって、神さまを礼拝して生きることは、かけがえのない宝です。私たちを造り、愛をもって命を与え、私たちのために独り子さえも与えてくださった神さまへの愛に生きるとき、私たちは自分らしく生き始めます。主イエスさまの御許に憩うとき、私たちは本当に安らぎを得る。しかしその幸いに生き続けることには忍耐が必要です。砂をかむような思いで信仰生活を送らねばならないときもあるし、意味が分からなくなってしまうこともあります。だからこそ、神さまは私たちを教会という共同体の一員とすることによって救ってくださいました。私たちには教会という家族が必要です。
今日、この御言葉に聞いている私たち一人ひとりは、キリストのお体、教会の一つの枝です。今、キリストの祝福の内に一日が始まっています。
ある人たちの習慣に倣って集会をやめたりせず、かえって励まし合いましょう。(ヘブライ10:25)
ヘブライ人への手紙は著者も宛先も分からない手紙です。一つの推測では、アポロという伝道者がローマの教会に送ったものではないか、と考えられているようです。しかも、もともと説教として語った言葉だったのではないかと推測されていると聞きます。本当かどうかは分かりません。もしかしたらそうなのかも知れません。とても魅力的な想像です。
そうだとしたら、私たちにとっては身近な手紙です。ローマはキリスト者にとっては異教社会です。周りには同じ信仰の仲間が殆どいない。キリスト者として生きることに苦労しているマイノリティです。「ある人たちの習慣に倣って集会をやめたりせず、却って励まし合いましょう」という言葉も、そうすると、よく意味が分かります。日曜日にわざわざ時間を割いて礼拝に行くような習慣を持たない社会です。周りには誰もそういう人がいない。礼拝生活に生きることに意味なんて見出してはいない。そういう周囲の習慣に合わせて、礼拝をおろそかにする人が少なくなかったのでしょう。しかし、そうではなくて励まし合いなさい、と言うのです。
私たちにとって、神さまを礼拝して生きることは、かけがえのない宝です。私たちを造り、愛をもって命を与え、私たちのために独り子さえも与えてくださった神さまへの愛に生きるとき、私たちは自分らしく生き始めます。主イエスさまの御許に憩うとき、私たちは本当に安らぎを得る。しかしその幸いに生き続けることには忍耐が必要です。砂をかむような思いで信仰生活を送らねばならないときもあるし、意味が分からなくなってしまうこともあります。だからこそ、神さまは私たちを教会という共同体の一員とすることによって救ってくださいました。私たちには教会という家族が必要です。
今日、この御言葉に聞いている私たち一人ひとりは、キリストのお体、教会の一つの枝です。今、キリストの祝福の内に一日が始まっています。