2023年6月30日金曜日

2023年6月30日の聖句

倒れたら、起き上がらない者がどこにいようか。背いたら、立ち帰らない者がどこにいようか。(エレミヤ8:4)
(使徒たちの主への言葉)私どもの信仰を増してください。(ルカ17:5)

今日の旧約の御言葉は、すぐ後にこのように続きます。「どうして、この民エルサレムは背く者となり、いつまでも背き続けているのか。彼らは欺きに固執して、立ち帰ることを拒む。」普通は、転んだら起き上がるものだ。ところが神の民であるはずの者たちは背いても背きっぱなしで神の御許に立ち帰ろうとしない。これはどうしたことか、と主は言われるのです。そのようなことは不自然だ、あり得ないことだ、という深い嘆きがここにある。転んだらそのまま転びっぱなしになっているように、背きっぱなしになるのはおかしくないか、と主は言われます。
私たちにとっての本当に自然な生き方は、主に立ち帰ることです。主なる神さまの御許から出て行くこと、主に背くことがあたかも自然な生き方であるかのように、この世界では吹聴されています。しかし本当はそうではない。自然なのは神さまに知らん顔することではなくて、神さまに向かって生きることです。主の御許に帰ることです。それなのに、その不自然なことがおきている、と主は言われます。
倒れても倒れたままになっているのは、駄々っ子です。倒れたままで泣き叫んで自分の要求を通そうと駄々をこねる子どものようです。
ところで、今日の新約の御言葉は使徒たちの主イエスへの願いの言葉です。これに対して主イエスはこのようにおっしゃいます。「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『根を抜き、海に植われ』と言えば、言うことを聞くであろう。」ほんの僅かな、からし種一粒ほどで良い、とおっしゃいます。肝心なのは、信じるということ。大きいか小さいかではない。ほんの小さな信仰でもあれば、山のように動かないと思い込んでいる事柄も言うことを聞くようになる。
私たちはついうっかりすると、神に背き、駄々をこねる自分が自然なこと、当たり前のことだと思い込んでしまいます。しかし主イエスはおっしゃいます。からし種一粒ほどの信仰で良い。とにかく私を信じて欲しい、と。その信仰は主ご自身が祈りに応えて与えてくださることでしょう。山をも動かす信仰、私たちの不信仰をも動かす信仰を。キリストの恵みの出来事は、私たちの内にもう始まっているのです。

2024年12月26日の聖句

私が主、彼と共にいる彼らの神であり、彼らがわが民イスラエルの家であることを、彼らは知るようになるーー主なる神の仰せ。(エゼキエル34:30) 今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。(ルカ2:11) 天使が羊飼いたちに向かって宣言し...