人はどうして神に対して正しくありえようか。
人と神は争うことを望んでも、千に一つも答えることはできない。(ヨブ記9:2~3)
立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。」(ルカ15:18)
主イエスのなさった譬え話の中でも最も印象的な話である「失われた息子」の話の一節です。父の家を離れて放蕩の限りを尽くし、やがて破産しても誰にも助けてもらえず、惨めな姿で家路に就いたときに口にした言葉です。
立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。」
私たちの姿です。この父の姿に託された神様。神様の御許を離れた私。しかし、私たちは自分の惨めさに気づきません。ハイデルベルク信仰問答は、神を愛し、隣人を愛して生きるはずの私がそのような愛に生き得ていないところに惨めさを見つめます。愛に破綻した私は、惨め。神様に対して何の申し開きもできない。ただ、後悔と悔い改めの言葉を申し上げるしかない。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。」そう、そのような私は雇い人の一人にでもして頂くしかない。
ところが父はこの人を息子として迎え入れました。走り寄って抱きしめました。道々練習してきた悔い改めの言葉を最後まで言わせませんでした。この息子は、父の圧倒的な赦しの前で、ただその腕に取りすがるだけでした。これが私たちの姿です。
私たちは神様と争って何かを申し上げることなどできない存在です。しかし、そんなことはすぐに忘れて不遜な態度をとってしまう。それでもなお私たちは父の圧倒的な赦しによって生かされている。父なる神の圧倒的な赦しによって、私も生きることができる。それだけが私の生きるよすがです。
人と神は争うことを望んでも、千に一つも答えることはできない。(ヨブ記9:2~3)
立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。」(ルカ15:18)
主イエスのなさった譬え話の中でも最も印象的な話である「失われた息子」の話の一節です。父の家を離れて放蕩の限りを尽くし、やがて破産しても誰にも助けてもらえず、惨めな姿で家路に就いたときに口にした言葉です。
立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。」
私たちの姿です。この父の姿に託された神様。神様の御許を離れた私。しかし、私たちは自分の惨めさに気づきません。ハイデルベルク信仰問答は、神を愛し、隣人を愛して生きるはずの私がそのような愛に生き得ていないところに惨めさを見つめます。愛に破綻した私は、惨め。神様に対して何の申し開きもできない。ただ、後悔と悔い改めの言葉を申し上げるしかない。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。」そう、そのような私は雇い人の一人にでもして頂くしかない。
ところが父はこの人を息子として迎え入れました。走り寄って抱きしめました。道々練習してきた悔い改めの言葉を最後まで言わせませんでした。この息子は、父の圧倒的な赦しの前で、ただその腕に取りすがるだけでした。これが私たちの姿です。
私たちは神様と争って何かを申し上げることなどできない存在です。しかし、そんなことはすぐに忘れて不遜な態度をとってしまう。それでもなお私たちは父の圧倒的な赦しによって生かされている。父なる神の圧倒的な赦しによって、私も生きることができる。それだけが私の生きるよすがです。