主は今に至るまで我々を助けてくださった。(サムエル上7:12)
(パウロの言葉)私は今日まで神の助けを経験してきて、今、ここに立ち、神の証しをなしているのです。(使徒26:22)
「主は今に至るまで我々を助けてくださった。」この「今に至るまで」という言葉がすごく良いなと思います。主なる神様は私たちのことを、今に至るまでいつも助けてくださった。神が助けてくださって今日の私がある。
しかし私たちはそのことをつい忘れがちです。それほど毎日の生活が自分に押し寄せてきているということかも知れません。それだけ不安や心配事が降りかかってきているのでしょう。しかし神さまは私たちが例え愚かに忘れてしまったとしても、それでも私たちを助けてくださるお方です。神様の助けを頂いて、私たちは今を生きている。神に生かされている。それは私たちも日々の生活の中でよく知っていることではないでしょうか。
今日のこのサムエル記の御言葉は、イスラエルの信仰と政治の指導者であったサムエルの言葉です。改めて、この節全体を引用するとこのように書かれています。
「サムエルは石を一つ取り、ミツパとパシェンの間に置き、『主は今に至るまで我々を助けてくださった』と言って、それをエベン・エゼルと名付けた。」このエベン・エゼルという言葉は、助けの石という意味のようです。きっと庭石のような大きな石をある場所に据えて、それをエベン・エゼル、助けの石と名付け、それを人々が見るたびに主が私たちを今に至るまで助けてきてくださったことを思い出すようにしたのでしょう。石を見て、その度に、人々は今に至るまでの主なる神様の助けを思い起こす。
使徒パウロは言います。「私は今日まで神の助けを経験してきて、今、ここに立ち、神の証しをなしているのです。」今日まで神が助けてくださった。私はその事実を経験してきた。だから、神の助けを証言し、神の良き御業、福音の出来事を証しする。そのように言うのです。
私たちも、神の助けを思い起こしましょう。一つの石でも、神の助けを証言します。私たちも神の助けを証言し、また、共に生きる仲間たちの証言に耳を傾け、神の助けを確信して生きていきましょう。主イエス・キリストの私たちへの助けは、どんなときにも絶対で、揺らぐことが決してありません。
(パウロの言葉)私は今日まで神の助けを経験してきて、今、ここに立ち、神の証しをなしているのです。(使徒26:22)
「主は今に至るまで我々を助けてくださった。」この「今に至るまで」という言葉がすごく良いなと思います。主なる神様は私たちのことを、今に至るまでいつも助けてくださった。神が助けてくださって今日の私がある。
しかし私たちはそのことをつい忘れがちです。それほど毎日の生活が自分に押し寄せてきているということかも知れません。それだけ不安や心配事が降りかかってきているのでしょう。しかし神さまは私たちが例え愚かに忘れてしまったとしても、それでも私たちを助けてくださるお方です。神様の助けを頂いて、私たちは今を生きている。神に生かされている。それは私たちも日々の生活の中でよく知っていることではないでしょうか。
今日のこのサムエル記の御言葉は、イスラエルの信仰と政治の指導者であったサムエルの言葉です。改めて、この節全体を引用するとこのように書かれています。
「サムエルは石を一つ取り、ミツパとパシェンの間に置き、『主は今に至るまで我々を助けてくださった』と言って、それをエベン・エゼルと名付けた。」このエベン・エゼルという言葉は、助けの石という意味のようです。きっと庭石のような大きな石をある場所に据えて、それをエベン・エゼル、助けの石と名付け、それを人々が見るたびに主が私たちを今に至るまで助けてきてくださったことを思い出すようにしたのでしょう。石を見て、その度に、人々は今に至るまでの主なる神様の助けを思い起こす。
使徒パウロは言います。「私は今日まで神の助けを経験してきて、今、ここに立ち、神の証しをなしているのです。」今日まで神が助けてくださった。私はその事実を経験してきた。だから、神の助けを証言し、神の良き御業、福音の出来事を証しする。そのように言うのです。
私たちも、神の助けを思い起こしましょう。一つの石でも、神の助けを証言します。私たちも神の助けを証言し、また、共に生きる仲間たちの証言に耳を傾け、神の助けを確信して生きていきましょう。主イエス・キリストの私たちへの助けは、どんなときにも絶対で、揺らぐことが決してありません。