多くの民は来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に登ろう。主はその道を私たちに示してくださる。私たちはその道を歩もう」と。(イザヤ2:3)
イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが御もとに来た。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えられた。(マタイ5:1~2)
主の山、ヤコブの神の家。神さまが私たちと出会ってくださる場所。主イエス・キリストも、山で弟子たちにお語りになりました。たとえ山でなくても、私たちにも主との出会いの場所があるのではないでしょうか。静かに語りかける主の御言葉に耳を傾け、主との出会いを経験したかけがえのない場所が。
かつて私たちの教会でご一緒に信仰生活を送った山元篁牧師は、四尾連の山で神さまとの出会いの経験をなさったといいます。私たちにも、一人ひとりに、かけがえのない主との出会いの経験が、そのような場所があるのではないでしょうか。ある人にはそれはどこかの山かも知れないし、ある人には礼拝堂かも知れません。あるいは自室での静かな祈りの時であったかも知れないし、電車の中で一人祈っていたときかも知れません。祈る私に、聖書の言葉を通して静かに語りかける神さまの御言葉を、その福音を聞く。礼拝の中で語りかける御言葉を聞く。仲間と共に賛美を献げているときに、家族や共と語り合っているときに、愛する人との別れを通して・・・さまざまなしかたで、主は私たちと出会ってくださいます。
私たちそれぞれに合わせて、本当にいろいろな形で主は出会ってくださる。しかしそのどれにも共通して大切なことは、神さまの御言葉を聞くという経験であると思います。「主はその道を私たちに示してくださる。」それは、御言葉による示しです。「そこで、イエスは口を開き、彼らに教えられた。」私たちは主イエスさまの語りかけに耳を傾けます。神は私たちに御言葉を語りかけるという仕方でより深く出会い、私たちを御自分の民として整えてくださいます。
ですから今日も、私たちは静まって神の語りかけに耳を傾けます。このお方の御言葉に私たちの命があると信じているから。主イエス・キリストの祝福の言葉が私たちの一日を導いています。
イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが御もとに来た。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えられた。(マタイ5:1~2)
主の山、ヤコブの神の家。神さまが私たちと出会ってくださる場所。主イエス・キリストも、山で弟子たちにお語りになりました。たとえ山でなくても、私たちにも主との出会いの場所があるのではないでしょうか。静かに語りかける主の御言葉に耳を傾け、主との出会いを経験したかけがえのない場所が。
かつて私たちの教会でご一緒に信仰生活を送った山元篁牧師は、四尾連の山で神さまとの出会いの経験をなさったといいます。私たちにも、一人ひとりに、かけがえのない主との出会いの経験が、そのような場所があるのではないでしょうか。ある人にはそれはどこかの山かも知れないし、ある人には礼拝堂かも知れません。あるいは自室での静かな祈りの時であったかも知れないし、電車の中で一人祈っていたときかも知れません。祈る私に、聖書の言葉を通して静かに語りかける神さまの御言葉を、その福音を聞く。礼拝の中で語りかける御言葉を聞く。仲間と共に賛美を献げているときに、家族や共と語り合っているときに、愛する人との別れを通して・・・さまざまなしかたで、主は私たちと出会ってくださいます。
私たちそれぞれに合わせて、本当にいろいろな形で主は出会ってくださる。しかしそのどれにも共通して大切なことは、神さまの御言葉を聞くという経験であると思います。「主はその道を私たちに示してくださる。」それは、御言葉による示しです。「そこで、イエスは口を開き、彼らに教えられた。」私たちは主イエスさまの語りかけに耳を傾けます。神は私たちに御言葉を語りかけるという仕方でより深く出会い、私たちを御自分の民として整えてくださいます。
ですから今日も、私たちは静まって神の語りかけに耳を傾けます。このお方の御言葉に私たちの命があると信じているから。主イエス・キリストの祝福の言葉が私たちの一日を導いています。