2024年2月8日木曜日

2024年2月8日の聖句

忍耐して主の助けを待ち望むのは味わいに満ちたことだ。(哀歌3:26)
自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。(ヘブライ12:1~2)

今日の旧約に「味わいに満ちた」とあります。まさに味わいに満ちた、良い翻訳だと思います。主の助けを味わう。しかも忍耐して主の助けを待ち望む。その味わいによって希望をいただいて、生かされる。それが私たちの営みです。
哀歌はユダ王国が外国に滅ぼされ、エルサレムの都が瓦礫の山になってしまった時代の祈りの言葉です。例えば今日の哀歌の第三の歌の一節にはこのようにあります。「私は主の怒りの杖で苦しみを受けた者。」本当に深くて苦しい絶望の中、呻くようにして口にされる一つひとつの言葉。それがこの哀歌の中に収められている。ですから、主の助けを忍耐して待ち望む、主の助けを味わうというのは、生やさしいことではなかったはずです。考えられる限り最大の悲惨を嘗めているところ。まるで暗くて深い穴蔵に押し込められたようなところ。そこに僅かに滴ってくる小さな雫に口元をぬらされるような、そんな僅かな希望にすがるようにして言うのです。「忍耐して主の助けを待ち望むのは味わいに満ちたことだ。」
これは、主イエスを見つめることなしにはできないことではないでしょうか。私たちのための救いそのものでいてくださる主イエスさまを見つめて、主イエスさまの愛にすがるようにして、私たちも神さまを求めます。ここに救いがある。そのことを信じて。それには忍耐が必要です。しかしキリストがその忍耐に必ず応えてくださいます。神がその御顔の光で私たちを包んでくださる。私たちはこのお方を信じて、主の助けを待ち望みます。

2024年12月21日の聖句

私の魂は生ける神に向かって、身も心も喜び歌います。(詩編84:3) (マリアへのエリサベトの言葉)私の主のお母様が、私のところに来てくださるとは、何ということでしょう。あなたの挨拶のお声を私が耳にしたとき、胎内の子が喜び踊りました。(ルカ1:43~44) エリサベトは既に老齢でし...