人間は、自分のために神々を造れるだろうか。(エレミヤ16:20)
だから、地上に属するもの、すなわち、淫らな行い、汚れた行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかなりません。(コロサイ3:5)
「人間は、自分のために神々を造れるだろうか。」造れるはずがない。本来は、そうなのです。人間を超えた存在、この世界をお造りになった方、天を治める方を、一体どういて人間が造ることができるでしょうか。ところが実際には、私たちは絶えず、繰り返し、神々をこしらえようとしている。それが私たちの現実です。聖書はそういう人間の習性を「偶像礼拝」と呼びます。
偶像礼拝というのは、何らかの神像を造ることとあまり狭く考えない方が良いと思います。むしろ聖書はこのように言う。「だから、地上に属するもの、すなわち、淫らな行い、汚れた行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかなりません。」偶像礼拝の本質は貪欲だと言います。私たちの貪欲が形をとったものが偶像礼拝に他ならない。淫らな行いや悪い欲望が、そういう願いを叶えてくれるのに便利な神々を生み出す。現代では、消費主義という名前を持つかもしれませんし、「自分に正直に」といったスローガンになるかもしれません。しかし自分の貪欲を基準にしたとき、そこで起きている事柄の正体は偶像礼拝に他ならない。
私たちを偶像礼拝から解放するのは、ただキリストだけです。キリストを崇め、キリストの救いに立ち返るときにしか、私たちは自由にはなれません。主イエス・キリストの恵みに満ちたお姿を、今日新たな思いで仰ぎましょう。
だから、地上に属するもの、すなわち、淫らな行い、汚れた行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかなりません。(コロサイ3:5)
「人間は、自分のために神々を造れるだろうか。」造れるはずがない。本来は、そうなのです。人間を超えた存在、この世界をお造りになった方、天を治める方を、一体どういて人間が造ることができるでしょうか。ところが実際には、私たちは絶えず、繰り返し、神々をこしらえようとしている。それが私たちの現実です。聖書はそういう人間の習性を「偶像礼拝」と呼びます。
偶像礼拝というのは、何らかの神像を造ることとあまり狭く考えない方が良いと思います。むしろ聖書はこのように言う。「だから、地上に属するもの、すなわち、淫らな行い、汚れた行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかなりません。」偶像礼拝の本質は貪欲だと言います。私たちの貪欲が形をとったものが偶像礼拝に他ならない。淫らな行いや悪い欲望が、そういう願いを叶えてくれるのに便利な神々を生み出す。現代では、消費主義という名前を持つかもしれませんし、「自分に正直に」といったスローガンになるかもしれません。しかし自分の貪欲を基準にしたとき、そこで起きている事柄の正体は偶像礼拝に他ならない。
私たちを偶像礼拝から解放するのは、ただキリストだけです。キリストを崇め、キリストの救いに立ち返るときにしか、私たちは自由にはなれません。主イエス・キリストの恵みに満ちたお姿を、今日新たな思いで仰ぎましょう。