2024年5月19日日曜日

2024年5月18日の聖句

主は言われた。「私は、エジプトにおける私の民の苦しみをつぶさに見、追い使う者の前で叫ぶ声を聞いた。」(出3:7)
もし、兄弟か姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたの誰かが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖まりなさい。存分に食べなさい」と言いながら、体に必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょうか。(ヤコブ2:15~16)

口先だけの愛は、結局は愛でも何でも無い。言っているだけでは愛にならない。そういうことでしょう。ヤコブの手紙が指摘する事柄は、本当に心にグサリと刺さります。鋭いです。私の現実を何でこんなに知っているのかと思います。聖書のすごみです。自分がいかに愛することに乏しく、どうしようもない人間なのかと言うことを思い知らされます。
ところが、神さまはそうではないのです。「私は、エジプトにおける私の民の苦しみをつぶさに見、追い使う者の前で叫ぶ声を聞いた。」神さまは私たちの苦しみをつぶさにご覧になり、私たちの叫びを聞いてくださいます。そして、そこから人々を救い出すために、このときにはモーセをお遣わしになりました。あるいはその後も、たくさんの預言者たちを遣わし、ずっと私たちの叫びや苦しみに寄り添い続けてくださった。そして、最後にはご自分の独り子イエス・キリストを遣わしてくださった。私たちの苦しみや叫びの中に入ってきてくださったのです。
神さまの愛は口先だけだったり絵空事だったりするのではなく、情動的であり、行動的であり、実際的です。共に苦しみ、共に叫び、共に痛む愛です。そして、私たちをその苦しみや叫びから救い出すために、飛び込んでくださる愛です。なんと素晴らしい神の愛!このような神の情熱的な愛が私たちに向けられているのです。

2024年7月27日の聖句

貧しい人が(主に)永遠に忘れられ、苦しむ人の希望が滅びることは決してない。(詩編9:19) イエスは言われた。「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。」(ルカ6:20) 「貧しい人々は、幸いである」と主イエス・キリストは宣言なさいます。キリスト以外の一体誰にそ...