2024年6月15日土曜日

2024年6月15日の聖句

正義のために進んで種を蒔き、慈しみの実を刈り入れよ。(ホセア10:2)
ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、自分の魂にこう言った。「魂よ、この先何年もの蓄えができたぞ。さあ安心して、食べて飲んで楽しめ。」しかし、神はその人に言われた。「愚か者よ。」(ルカ12:16~17,19~20)

今日の新約の御言葉にはとても面白い言い回しが登場します。「金持ちは、自分の魂にこう言った。『魂よ・・・。』」あまり普通は、自分の魂に何か語りかけようとは言わないと思います。ユダヤ人の感覚では普通なのでしょうか?例えそうだとしても、とても興味をひく言い回しではないでしょうか。
この「魂」という単語は、ギリシア語では「プシュケー」という字を書きます。この言葉は、渇いた喉のように水を求めてあえぐ、弱くて脆い人間存在を現す言葉なのだそうです。そうとすると、先ほどの「自分の魂に言った」というのは、どうしても満たされず、いつも渇いていて、何かを求めている自分の内奥に向かっていった言葉、ということになると思います。どうしても満たされないその渇望を埋めるために、この人は畑の豊作でもってそれを埋めようとしました。お金やものに囲まれることで満たされない心を満たそうとする思いは、現代人と同じです。私たちにもよく分かる。
ところが、神さまのこの人への言葉はとても厳しいものです。「愚か者よ」とおっしゃるのです。なぜか。この金持ちはこの夜の内にも死ぬ。そうしたら、ため込んだその財は一体誰のものになるのか。お金は死を前にして何の役にも立たない。結局、渇きをごまかすだけで本当に癒やしているわけではないのです。
これは主イエスのなさった譬え話です。そうであるからこそ、逆に、そこまでおっしゃる主イエスさまは私たちの魂の渇きを完全に満たしてくださいます。「正義のために進んで種を蒔き、慈しみの実を刈り入れよ。」ほかの誰でもなく主イエス・キリストに正義と慈しみを求めるものは、必ず満たされます。その渇きを癒やされる。「義に飢え渇く人々は、幸いである」とおっしゃった主イエスさまは、必ずご自身の慈しみをもって私たちを満たしてくださる。私たちはそのことを信じてよい。御言葉は私たちにそう語りかけます。

2025年4月3日の聖句

わたしの民は二つの悪を行った。いのちの水の泉であるわたしを捨て、多くの水溜を自分たちのために掘ったのだ。水を溜めることのできない、壊れた水溜を。(エレミヤ2:13) (イエスの言葉)私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出...