怒りを解き、憤りを捨てよ。
怒りを燃やすな。それはただ悪を行うに至る。(詩編37:8)
誰も、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。互いに、またすべての人に対して、いつも善を行うよう努めなさい。(1テサロニケ5:15)
「怒り」の困った事実は、それが燃えるとき、私たちの内に自分は絶対に正しいという確信が生まれることです。自分は絶対に正しい、それが分からない相手が悪い。激しい怒りであっても静かな怒りであっても、怒るとき私たちはそう思い込んでいます。だからこそ怒っている、と言うこともできるかもしれません。
ところが後から冷静になって振り返ってみると、あんなに確信できていた自分の正しさが非常に怪しいものに過ぎなかったということは珍しくありません。あるいは持続する怒りのために、自分の悪を認めずに相手の悪いところばかりを探してしまうということもあるかもしれません。私たちの怒りは神の義を実現しないのです。「怒りを燃やすな。それはただ悪を行うに至る。」
私たちの指針は、いつでも、主イエス・キリストご自身です。「誰も、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。互いに、またすべての人に対して、いつも善を行うよう努めなさい。」これこそ、主イエスさまが私のためにしてくださったことではないでしょうか。悪をもって悪に報いることなく、すべての人に善を行われる。ここにこそキリストのなさった御業がある。私たちはキリストをまねたいと願います。キリストのように隣人と共に生きたいと願います。それは、キリストのように神を愛し、神の愛の中で生きるということから生まれる新しい歩みです。主イエス・キリストの憐れみと平和を求めて、私たちは今日も生きていきます。
怒りを燃やすな。それはただ悪を行うに至る。(詩編37:8)
誰も、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。互いに、またすべての人に対して、いつも善を行うよう努めなさい。(1テサロニケ5:15)
「怒り」の困った事実は、それが燃えるとき、私たちの内に自分は絶対に正しいという確信が生まれることです。自分は絶対に正しい、それが分からない相手が悪い。激しい怒りであっても静かな怒りであっても、怒るとき私たちはそう思い込んでいます。だからこそ怒っている、と言うこともできるかもしれません。
ところが後から冷静になって振り返ってみると、あんなに確信できていた自分の正しさが非常に怪しいものに過ぎなかったということは珍しくありません。あるいは持続する怒りのために、自分の悪を認めずに相手の悪いところばかりを探してしまうということもあるかもしれません。私たちの怒りは神の義を実現しないのです。「怒りを燃やすな。それはただ悪を行うに至る。」
私たちの指針は、いつでも、主イエス・キリストご自身です。「誰も、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。互いに、またすべての人に対して、いつも善を行うよう努めなさい。」これこそ、主イエスさまが私のためにしてくださったことではないでしょうか。悪をもって悪に報いることなく、すべての人に善を行われる。ここにこそキリストのなさった御業がある。私たちはキリストをまねたいと願います。キリストのように隣人と共に生きたいと願います。それは、キリストのように神を愛し、神の愛の中で生きるということから生まれる新しい歩みです。主イエス・キリストの憐れみと平和を求めて、私たちは今日も生きていきます。