天におられる神に向かって、両手と共に心を上げよう。(哀歌3:41)
あなたがたの中に苦しんでいる人があれば、祈りなさい。喜んでいる人があれば、賛美の歌を歌いなさい。(ヤコブ5:13)
旧約聖書の哀歌はその名の通りの「哀しみの歌」。神の民ユダがバビロンに滅ぼされて壊滅し、捕囚として強制連行された後の時代を背景とした言葉です。「天におられる神に向かって、両手と共に心を上げよう。」哀しみのどん底、絶望の深まったところで、ただただ神に祈っている。それ以外に何もできないからです。天におられるかに向かって、両手を上げて祈る。ただ「手を上げる」という恰好をするのではなくて、心を上げて、神の御前に祈りを捧げる。
まさに、ヤコブの手紙が語りかけていることがなされていたのです。「あなたがたの中に苦しんでいる人があれば、祈りなさい。」苦しみの中で祈りを捧げた。ここに慰めがあります。苦しんで祈る者の声を、神は必ず耳を傾けて聞いてくださる。私たちはそのことを信じています。
ヤコブの手紙はさらに言います。「喜んでいる人があれば、賛美の歌を歌いなさい。」私たちは時に喜びの中で過ちを犯します。神を忘れてしまう。喜びの中で傲慢になってしまう。しかしそんなとき賛美の歌を歌い神の御前に身をかがめよう、と聖書は勧めます。私たちの生きる場所は神の御前です。苦しんでいるときにも、喜んでいるときにも、私たちは神の御前に生きている。生かされている。だから私たちは苦しみの中で祈り、喜びの日に神を賛美します。
あなたがたの中に苦しんでいる人があれば、祈りなさい。喜んでいる人があれば、賛美の歌を歌いなさい。(ヤコブ5:13)
旧約聖書の哀歌はその名の通りの「哀しみの歌」。神の民ユダがバビロンに滅ぼされて壊滅し、捕囚として強制連行された後の時代を背景とした言葉です。「天におられる神に向かって、両手と共に心を上げよう。」哀しみのどん底、絶望の深まったところで、ただただ神に祈っている。それ以外に何もできないからです。天におられるかに向かって、両手を上げて祈る。ただ「手を上げる」という恰好をするのではなくて、心を上げて、神の御前に祈りを捧げる。
まさに、ヤコブの手紙が語りかけていることがなされていたのです。「あなたがたの中に苦しんでいる人があれば、祈りなさい。」苦しみの中で祈りを捧げた。ここに慰めがあります。苦しんで祈る者の声を、神は必ず耳を傾けて聞いてくださる。私たちはそのことを信じています。
ヤコブの手紙はさらに言います。「喜んでいる人があれば、賛美の歌を歌いなさい。」私たちは時に喜びの中で過ちを犯します。神を忘れてしまう。喜びの中で傲慢になってしまう。しかしそんなとき賛美の歌を歌い神の御前に身をかがめよう、と聖書は勧めます。私たちの生きる場所は神の御前です。苦しんでいるときにも、喜んでいるときにも、私たちは神の御前に生きている。生かされている。だから私たちは苦しみの中で祈り、喜びの日に神を賛美します。