主はこう言われる。もしあなたが立ち帰るならば、私はあなたを立ち帰らせる。(エレミヤ15:19)
(イエスの言葉)誰も人々の前で私を認める者は、私も天の父の前で、その人を認める。(マタイ10:32)
主なる神さまに立ち帰ること、主イエス・キリストを人々の前で認めること。神さまは、私たちが身も魂も、思いだけではなく言葉も行動も、神のものとして生きることを求めておられます。
今日の新約の御言葉の少し前のところで、主イエスはこのようにおっしゃっています。「体は殺しても、命は殺すことのできない者どもを恐れるな。」ここからのつながりで考えると、「人々の前で私を認める者は」の「人々」というのは、私たちの体を殺そうとする者たちということであるのかもしれません。しかも、キリストへの信仰を認めようとせず、迫害して襲ってくる者たちということかも知れません。そうすると、「主イエスを認める」というのは、かなり切迫した場面での信仰を問われていることになります。
実際にそういう場面に立たされたときに自分がどうふるまうのか。そう考えると、非常に心許ないです。正直言って、失敗すると思う。しかしきっと大事なのは、そうやって自分にばかり向かう目を神に向けることなのだと思います。主イエス・キリストが私をも父の御前で認めてくださること。私が立ち帰ったとき、それは神ご自身が立ち帰らせてくださっていたのだという事実。私たちの目を、そうやって主なる神さまのしてくださることに向けたい。
今日の私たちの歩みが、自分の心許なさではなく神ご自身に向かうものでありますように。
(イエスの言葉)誰も人々の前で私を認める者は、私も天の父の前で、その人を認める。(マタイ10:32)
主なる神さまに立ち帰ること、主イエス・キリストを人々の前で認めること。神さまは、私たちが身も魂も、思いだけではなく言葉も行動も、神のものとして生きることを求めておられます。
今日の新約の御言葉の少し前のところで、主イエスはこのようにおっしゃっています。「体は殺しても、命は殺すことのできない者どもを恐れるな。」ここからのつながりで考えると、「人々の前で私を認める者は」の「人々」というのは、私たちの体を殺そうとする者たちということであるのかもしれません。しかも、キリストへの信仰を認めようとせず、迫害して襲ってくる者たちということかも知れません。そうすると、「主イエスを認める」というのは、かなり切迫した場面での信仰を問われていることになります。
実際にそういう場面に立たされたときに自分がどうふるまうのか。そう考えると、非常に心許ないです。正直言って、失敗すると思う。しかしきっと大事なのは、そうやって自分にばかり向かう目を神に向けることなのだと思います。主イエス・キリストが私をも父の御前で認めてくださること。私が立ち帰ったとき、それは神ご自身が立ち帰らせてくださっていたのだという事実。私たちの目を、そうやって主なる神さまのしてくださることに向けたい。
今日の私たちの歩みが、自分の心許なさではなく神ご自身に向かうものでありますように。