静かに信頼していることにこそ、あなたがたの力がある。(イザヤ30:15)
神の国は言葉ではなく、力にあるのです。(1コリント4:20)
言葉が溢れかえってる時代です。少し前までは、一人の人間の言葉はその人の周りにしか届きませんでした。よほど特殊な手段を持っている人でない限り、不特定多数の人に言葉を広めることはできませんでした。しかし時代が変わり、誰もが発信の手段を持ち、世の中にはたくさんの言葉が溢れかえるようになりました。後から見れば当然の帰結であるかもしれませんが、その結果、言葉がインフレーションを起こし、あるいは摩耗し、陳腐になっていきました。こんなにも言葉が溢れているのに、あるいはそれ故にというべきか、言葉への信頼が著しく毀損されてしまった。言葉はたくさんあるけれど、その価値が貶められた時代である、と思います。
そうであるからこそ、本当に価値のある言葉を誰もが求めているし、本物の価値は高くなっているとも思います。使徒はパウロは言います。「神の国は言葉ではなく、力にあるのです。」数々の言葉を尽くして福音を語り続けた人の言葉です。言葉を信頼し、言葉によって福音を言い表すことに命をかけ、福音の言葉を届けるために命を献げた人の言葉です。ここでパウロが言う「力」は、神の力のことでしょう。神の国は私たちがどんなに巧いことを言って見せたり、それっぽい話術で説得して見せたりすることにあるのではない。神ご自身の力が働いている。神ご自身がその力をもって私たちのところへ来たらせてくださっている。神の国は、神の力にある。
だから、私たちは静かにして神を待ち望みます。世に溢れかえる空しい言葉に心を奪われるのではなく、静まって、神を待ち望む。そのための祈りの時を、私たちは神の御前に貴いものとして献げるのです。
神の国は言葉ではなく、力にあるのです。(1コリント4:20)
言葉が溢れかえってる時代です。少し前までは、一人の人間の言葉はその人の周りにしか届きませんでした。よほど特殊な手段を持っている人でない限り、不特定多数の人に言葉を広めることはできませんでした。しかし時代が変わり、誰もが発信の手段を持ち、世の中にはたくさんの言葉が溢れかえるようになりました。後から見れば当然の帰結であるかもしれませんが、その結果、言葉がインフレーションを起こし、あるいは摩耗し、陳腐になっていきました。こんなにも言葉が溢れているのに、あるいはそれ故にというべきか、言葉への信頼が著しく毀損されてしまった。言葉はたくさんあるけれど、その価値が貶められた時代である、と思います。
そうであるからこそ、本当に価値のある言葉を誰もが求めているし、本物の価値は高くなっているとも思います。使徒はパウロは言います。「神の国は言葉ではなく、力にあるのです。」数々の言葉を尽くして福音を語り続けた人の言葉です。言葉を信頼し、言葉によって福音を言い表すことに命をかけ、福音の言葉を届けるために命を献げた人の言葉です。ここでパウロが言う「力」は、神の力のことでしょう。神の国は私たちがどんなに巧いことを言って見せたり、それっぽい話術で説得して見せたりすることにあるのではない。神ご自身の力が働いている。神ご自身がその力をもって私たちのところへ来たらせてくださっている。神の国は、神の力にある。
だから、私たちは静かにして神を待ち望みます。世に溢れかえる空しい言葉に心を奪われるのではなく、静まって、神を待ち望む。そのための祈りの時を、私たちは神の御前に貴いものとして献げるのです。