主よ、わが力、わが砦、苦難の日のわが逃げ場よ。(エレミヤ16:19)
私は自分の信じてきた方を知っており、私に委ねられたものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。(2テモテ1:12)
主なる神様を「わが砦」とお呼びしています。神様は私の砦でいてくださる。言葉としてはなんとなく意味が分かりますが、私の生活の実感として「砦」があまり近いものではなく、少し意味を捉えきれないところもある言葉でもあります。
「砦」は、戦争や何かの時に基地になる場所、安全な場所、守りのための要塞のようなものでしょうか。ここでは「苦難の日のわが逃れ場」ともありますから、苦難が敵のように襲いかかってくるときに、神が私の砦になってくださって、敵の攻撃を防いで私を守ってくださる、ということでしょう。
そう考えると、戦争だけの話ではなく、どんなときにも私たちには自分を守ってくれる安全な場所が必要なのだと思います。例えどんなに強い人格の持ち主であったとしても、一生その強さを維持できる人は存在しません。誰でもやがて衰えるし、弱い日がやって来る。そんなときに私たちには安心して自分の弱さをさらけ出し、受け止めてくれる存在が必要なのではないでしょうか。自分は思ったほど大したことがないということを思い知らされる日が、私たちには必ず訪れるのです。
神はわが力。だから、私は弱くても恐れることはない。主が味方でいてくださるから。それが私たちの確信ではないでしょうか。私にはできなくても主が守ってくださる。そのことを信じ、神様にお任せする。そんな開き直りを「弱い」と罵る人もいると思います。しかし、その弱さを受け止めることこそが本当の強さなのではないでしょうか。
私は自分の信じてきた方を知っており、私に委ねられたものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。(2テモテ1:12)
主なる神様を「わが砦」とお呼びしています。神様は私の砦でいてくださる。言葉としてはなんとなく意味が分かりますが、私の生活の実感として「砦」があまり近いものではなく、少し意味を捉えきれないところもある言葉でもあります。
「砦」は、戦争や何かの時に基地になる場所、安全な場所、守りのための要塞のようなものでしょうか。ここでは「苦難の日のわが逃れ場」ともありますから、苦難が敵のように襲いかかってくるときに、神が私の砦になってくださって、敵の攻撃を防いで私を守ってくださる、ということでしょう。
そう考えると、戦争だけの話ではなく、どんなときにも私たちには自分を守ってくれる安全な場所が必要なのだと思います。例えどんなに強い人格の持ち主であったとしても、一生その強さを維持できる人は存在しません。誰でもやがて衰えるし、弱い日がやって来る。そんなときに私たちには安心して自分の弱さをさらけ出し、受け止めてくれる存在が必要なのではないでしょうか。自分は思ったほど大したことがないということを思い知らされる日が、私たちには必ず訪れるのです。
神はわが力。だから、私は弱くても恐れることはない。主が味方でいてくださるから。それが私たちの確信ではないでしょうか。私にはできなくても主が守ってくださる。そのことを信じ、神様にお任せする。そんな開き直りを「弱い」と罵る人もいると思います。しかし、その弱さを受け止めることこそが本当の強さなのではないでしょうか。