ヤコブの家から御顔を隠されていても、主に望みをかける。(イザヤ8:17)
けれども彼らは神によって選ばれた民、イスラエルです。神の子らであるという特権は彼らのものです。神はその栄光を彼らに啓示されました。神は繰り返し彼らと契約を結ばれました。神は彼らに律法と、神をあがめるための犠牲の礼拝の秩序を与えました。神は彼らに来たるべき救いを約束されました。(ローマ9:4)
今日の旧約聖書の御言葉は、聖書協会共同訳が掲げられています。同じところをフランシスコ会訳ではこのように翻訳しています。「私は主を待ち望む。ヤコブの家からみ顔を隠しておられる方を。私は主に望みをかける。」こちらもとても良い翻訳だと思います。主がヤコブの家から御顔を隠しておられる。しかしそれでもなお主に望みをかけている。御顔を隠しておられる主に望みをかけている。
それは、神の約束があるからです。神が契約を結んでくださったからです。「神は繰り返し彼らと契約を結ばれました」と書いてあります。繰り返し、です。イスラエルの民が何度罪に罪を重ね、どうしようもなく、改善の兆しがなく、どんなに駄目であっても、神は彼らを見放されませんでした。「来たるべき救いがある」と約束してくださいました。
ですから、神の御顔が見えなくなるのは、いっときのこと。そう信じることができる。神は私たちをお見捨てにはならない。そう信じることが許されている。これは、私たちのことです。私たちは主イエス・キリストという神の究極の契約を見せていただきました。このお方に示された神の愛を私たちは知らされました。このお方にあって、私たちは神に望みをかけるのです。
けれども彼らは神によって選ばれた民、イスラエルです。神の子らであるという特権は彼らのものです。神はその栄光を彼らに啓示されました。神は繰り返し彼らと契約を結ばれました。神は彼らに律法と、神をあがめるための犠牲の礼拝の秩序を与えました。神は彼らに来たるべき救いを約束されました。(ローマ9:4)
今日の旧約聖書の御言葉は、聖書協会共同訳が掲げられています。同じところをフランシスコ会訳ではこのように翻訳しています。「私は主を待ち望む。ヤコブの家からみ顔を隠しておられる方を。私は主に望みをかける。」こちらもとても良い翻訳だと思います。主がヤコブの家から御顔を隠しておられる。しかしそれでもなお主に望みをかけている。御顔を隠しておられる主に望みをかけている。
それは、神の約束があるからです。神が契約を結んでくださったからです。「神は繰り返し彼らと契約を結ばれました」と書いてあります。繰り返し、です。イスラエルの民が何度罪に罪を重ね、どうしようもなく、改善の兆しがなく、どんなに駄目であっても、神は彼らを見放されませんでした。「来たるべき救いがある」と約束してくださいました。
ですから、神の御顔が見えなくなるのは、いっときのこと。そう信じることができる。神は私たちをお見捨てにはならない。そう信じることが許されている。これは、私たちのことです。私たちは主イエス・キリストという神の究極の契約を見せていただきました。このお方に示された神の愛を私たちは知らされました。このお方にあって、私たちは神に望みをかけるのです。