2025年6月2日月曜日

2025年6月2日の聖句

(エレミヤの言葉)娘であるわが民の傷のゆえに私も傷つき、嘆き、恐怖が私を締めつけていた。ギルアドには香油がないのか。そこには医者がいないのか。(エレミヤ8:21~22)
イエスはザアカイに言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(ルカ19:9~10)

人々が傷つき、嘆いている姿を見て、自信も傷つき、嘆いている。この言葉は預言者自身の言葉であり、同時に主なる神様の嘆きを表す言葉でもあります。「ギルアドには香油がないのか」と言います。香油を塗って痛みを和らげるのでしょう。しかしどこを探しても癒やしがない。痛みを和らげる手段がない。「そこには医者がいないのか。」痛みや嘆きを治す人も、その手段ももはやない。どこにも希望がない。主なる神様の、そして主の嘆きを映し出すような預言者の嘆きは深まります。
エレミヤの目の前にいる民の傷は、根本的には、神を求めようとしない生き方や社会的な価値観から生まれています。少し前のところを見るとこのように書いてあります。「なぜ、彼らは彼らの彫像によって、異国の空しいものによって、私を怒らせたのか。」主なる神様を信じ、礼拝するのではなく、外国の空しい神々を拝んでいる。主なる神様に知らんぷりしている。そういうところから生まれる傷が広がっているのに、そのことに気付こうとしない。
今日の新約に登場するザアカイも、そうやって生きてきた人でした。しかし主イエスと出会って変わりました。主が来てくださったことでザアカイは救われました。キリストが神のものとして取り戻してくださったからです。「今日、救いがこの家を訪れた。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」同じ主イエスさまが私たちのところにも訪れてくださっています。あなたを救うために、あなたを探しに来てくださいました。あなたが傷つき、嘆いているのを放っておくことなく、キリストが来てくださっているのです。

2025年7月2日の聖句

主は高くおられ、低くされた者を顧みる。遠くから、高慢な者を見抜かれる。(詩編138:6) (ある金持ちの言葉)「魂よ、この先何年もの蓄えができたぞ。さあ安心して、食べて飲んで楽しめ。」しかし、神はその人に言われた。「愚かな者よ、今夜、お前の魂は取り上げられる。お前が用意したものは...