2025年6月27日金曜日

2025年6月27日の聖句

主は命を奪い、また命を与え、陰府に下し、また引き上げます。(サムエル上2:6)
生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。(ローマ14:8)

今から460年ほど前に生み出された信仰告白であるハイデルベルク信仰問答にはこのように書かれています。「生きている時も、死ぬ時も、あはたのただ一つの慰めは、何ですか。」この問いに対してこのように答えます。「わたしが、身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、わたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであることであります。」
今日私たちに与えられている御言葉は、まさにこの信仰問答の告白の背後にある御言葉です。「生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」この事実こそが私の慰めだ、とハイデルベルク信仰問答は言います。生きているときにも慰めだし、死を迎えるときにも、私はキリストのものという事実こそが私の慰めであり続ける。そう告白するのです。
私はキリストのもの。この事実が意味しているのは、ハイデルベルク信仰問答の続きによれば、キリストがご自分の尊い血潮によって私の一切の罪のために支払ってくださり、私を悪魔の支配から救いだしてくださった、ということです。キリストの血によって私は神のものとされた。だから、私の頭の毛一本でさえも神の許しがなければ地に落ちることはない。それだけでなく、すべてのことが、当然、私の祝福に役立つようになっている。だから私はこれから後は喜んで主のために生きることができる。「生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。」
私たちが今日という日を生きていくために、「私は主のもの」と自らに語りかけ、神のものとされたことを喜び、また慰めとしましょう。この事実はどのようなときにも変わることのない、確かなことなのです。

2025年8月30日の聖句

主よ、あなたは私を回復させ、生かし続けてくださいました。(イザヤ38:16) 時に、プブリウスの父親が熱病と下痢で床に就いていたので、パウロはその人のところに行って祈り、手を置いて癒やした。(使徒28:8) 熱病や下痢を初めとして、あらゆる病に苦しむ仲間のために私たちは祈ります。...