2025年6月9日月曜日

2025年6月9日の聖句

正しい人には苦しみが多い。しかし、主はそのすべてから救いだしてくださる。(詩編34:20)
あなたがたが連れて行かれ、引き渡されたとき、何を言おうかと心配してはならない。その時には、あなたがたに示されることを話せばよい。話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。(マルコ13:11)

今日の新約聖書に記されている主イエスのお言葉は、迫害されているときにどうやって信仰を弁明するのか、という話です。「あなたがたが連れて行かれ、引き渡されたとき」というのはそういう意味です。私たちが今の日本で生活している限りは、とりあえず当面のところ、そういう意味での迫害に遭うことはないと思います。特高警察に捕まることもないし、教会に集まることが犯罪とされるわけでもありません。しかし、そうであるからと言って私たちと無関係の話とは言えないと思います。もっと小さく、命をかけているのではない場面で転んでしまうということが私たちにはいくらでも起こるからです。何気ない隣人との会話の中で、周りの人と調子を合わせてしまうときに、自分に何かしらの言い訳をしながら・・・など、どのようなときであっても、信仰の弁明をせずに済ませてしまう誘惑は私たちに多いのではないでしょうか。
しかし、主イエスは約束してくださいます。「その時には、あなたがたに示されることを話せばよい。話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。」聖霊が私たちに代わって、私たちの口を通して弁明し、キリストの福音をまさに福音として証言してくださる。だから大丈夫、と主イエスはおっしゃいます。私たちに必要なのは、聖霊の御業の邪魔をしないことなのかもしれません。
苦しい目に遭わなければならなくなったとき、信仰の危機に陥ったとき、自分が一体どうなってしまうのかと思うととても不安になります。そんなときに耐えられる強い信仰を自分は持ち合わせていないのではないか。主イエスは、私たちがそういうことを心配するとご存じでいらっしゃるからこそ、聖霊が話してくださると約束しておられるのではないかと思います。私たちは不安になったり心配になったりしてしまう。だからこそ、聖霊が語り出すことに委ねてほしい。主イエスはそうおっしゃっているのではないでしょうか。

2025年6月14日の聖句

女が見ると、その木は食べるに良く、目には美しく、また、賢くなるというその木は好ましく思われた。(創世記3:6) 世も、世の欲も、過ぎ去ります。しかし、神の御心を行う者は、永遠にとどまります。(1ヨハネ2:17) 蛇が女を唆した言葉は、これです。「いや、決して死ぬことはない。それを...