2025年9月23日火曜日

2025年9月23日の聖句

私があなたがたを、そのすべての汚れから救う。(エゼキエル36:29)
神は私たちを汚れた生き方へではなく、聖なる生き方へと招かれました。(1テサロニケ4:7)

今日の旧約聖書に「汚れ」という言葉があります。何を意味しているのでしょうか。
エゼキエル書の文脈を少し見てみると、このようなことが書かれています。「イスラエルの家は自分の土地に住んでいたとき、その歩みと行いによってこれを汚した(17節)」。「彼らは偶像によってこの地を汚した」(18節)。「彼らは諸国民のところに行き、そこでわが聖なる名を汚した」(20節)。
「汚れ」は「聖」の対義語ということになりますが、聖書の場合、祭儀(つまりは礼拝)を献げることが禁じられるようなタブーに触れることを意味します。例えば司祭が死体に触れることはタブーであって、それを犯すと一定期間祭儀を司ることができません。そのようにして聖と汚れを区別することで、人間としての営みの中に特別な聖なる時間や空間が生まれる。「聖」は他とは区別され、神のものとされる。「聖」が具体的なかたちで人間の営みの中に現れる。そのために人間は身を清めて臨まなければなりません。それを犯すことは「汚れ」となります。
預言者エゼキエルは、最も犯してはならない究極の「聖」である神ご自身のお名前までもが汚された、と言っています。神のもの、聖なる民として歩まねばならないイスラエルがあろうことか人間が造ったものを神として拝み、聖なるお方を聖なお方として崇めなかった。禁忌を犯して汚してしまった。神の神らしさが損なわれてしまった。それによってイスラエル自身が汚れた民になってしまった。その汚れた民を再び神のものとしよう、というのが預言者エゼキエルを通して神がイスラエルの民に告げてくださった救いです。
私たちは、同じ神によって、イエス・キリストが宣言した神の国の民として頂きました。汚れそのものである私たちを神がご自分のものとしてくださった。だから、聖書は言います。「神は私たちを汚れた生き方へではなく、聖なる生き方へと招かれました。」神のものとされた私たちは、神のもの・聖なるものとして生きることが自然です。この聖を犯すことなく生きていこう、と聖書は私たちに語りかけます。

2025年12月4日の聖句

律法を知らない子どもたちが、またこれを聞きかつ学び、あなたがたの神である主をいつでも畏れるようになるべきです。(申命記31:13) 父親たち、子どもを怒らせず、主のしつけと諭しによって育てなさい。(エフェソ6:4) 私にとっては非常に耳の痛い御言葉です。「父親たち、子どもを怒らせ...