神に、生ける神に私の魂は渇く。
いつ御前に出て、神の御顔を仰げるのか。(詩編42:3)
それで、私たちはいつも安心しています。もっとも、この体を住みかとしている間は、主から離れた身であることも知っています。というのは、私たちは、直接見える姿によらず、信仰によって歩んでいるからです。(2コリント5:6~7)
主イエスさまにお会いしたい、主の御顔を仰ぎたい。それが私たちの最大の願いです。しかし、今私たちはこの目で主イエスの御顔を見、この手で主イエスに触れることはできません。
今日の旧約の御言葉にはこのように書かれています。「神に、生ける神に私の魂は渇く。いつ御前に出て、神の御顔を仰げるのか。」主を求める切実な思いが言い表されています。私たちの願いです。私たちの求めです。私たちも渇いている。求めている。表面上、私たちの願いや求めや渇きは他の何かに向いているように思われるかもしれませんが、本当に私たちを満たすことができるのは主イエスさまです。だから、他の何かでこの渇きを満たそうとしてはならないのです。他の何によっても満たされない。主だけが私の魂の渇きを癒やすことができる。他にはない。そのことを純粋に信頼しましょう。
しかし、私たちが本当に顔と顔とを合わせて主を仰ぐことができる日はまだ来ていない。それは世の終わり、すべてのものの完成の時のことです。ですから今「私たちは、直接見える姿によらず、信仰によって歩んでいる」のです。キリストを待ち望み、キリストに期待し、キリストに祈って今日を生きるのです。
いつ御前に出て、神の御顔を仰げるのか。(詩編42:3)
それで、私たちはいつも安心しています。もっとも、この体を住みかとしている間は、主から離れた身であることも知っています。というのは、私たちは、直接見える姿によらず、信仰によって歩んでいるからです。(2コリント5:6~7)
主イエスさまにお会いしたい、主の御顔を仰ぎたい。それが私たちの最大の願いです。しかし、今私たちはこの目で主イエスの御顔を見、この手で主イエスに触れることはできません。
今日の旧約の御言葉にはこのように書かれています。「神に、生ける神に私の魂は渇く。いつ御前に出て、神の御顔を仰げるのか。」主を求める切実な思いが言い表されています。私たちの願いです。私たちの求めです。私たちも渇いている。求めている。表面上、私たちの願いや求めや渇きは他の何かに向いているように思われるかもしれませんが、本当に私たちを満たすことができるのは主イエスさまです。だから、他の何かでこの渇きを満たそうとしてはならないのです。他の何によっても満たされない。主だけが私の魂の渇きを癒やすことができる。他にはない。そのことを純粋に信頼しましょう。
しかし、私たちが本当に顔と顔とを合わせて主を仰ぐことができる日はまだ来ていない。それは世の終わり、すべてのものの完成の時のことです。ですから今「私たちは、直接見える姿によらず、信仰によって歩んでいる」のです。キリストを待ち望み、キリストに期待し、キリストに祈って今日を生きるのです。