2026年3月31日火曜日

2026年3月31日の聖句

私たちの神である主は、ご自分がなさるすべての業において正しいのです。(ダニエル9:14)
メシアは、これらの苦しみを受けて、栄光に入るはずではなかったか。(ルカ24:26)

「メシアは、これらの苦しみを受けて、栄光に入るはずではなかったか。」これは主イエスご自身の御言葉です。「はず」とここで主は言っておられます。この言葉は「その必要がある」とか「それが必然だ」とか「それが事柄にふさわしい」とか、そのような意味を持つ言葉です。イエスは、苦しみをお受けになった。それは主イエスがメシアとしてお受けにならなければならないものだった。そう言っておられます。しかも、十字架の苦しみをお受けになり、その後、復活という栄光に入ることもまた必然であり、必要なことであった。メシア・イエスにとって、十字架の苦しみと復活の栄光は一つにつながる必然的な道だ、と主は言われるのです。
自分の心の奥底にある願いのようなものをよくよく振り返ってみて、思うのです。私は実は、十字架のない復活を求めているのではないか、と。私たちの信じる神の子は、十字架に掛けられました。しかもそれが必ず必要なのだ、とおっしゃいます。十字架は、極悪人にしか下されない残忍な死刑です。そこにはほんの僅かにもロマンや現実逃避の入り込む余地はありません。十字架は、圧倒的な死と痛みと屈辱です。主は、私は必ず十字架に掛けられなければならなかったのだ、とおっしゃるのです。「私たちの神である主は、ご自分がなさるすべての業において正しいのです。」御子が十字架に掛けられることを正しいとなさるお方が私たちの信じる神様なのです。
受難週を迎えています。今日、私たちは、じっと十字架に掛けられたキリストのお姿を仰ぎましょう。復活したのは十字架の上で屈辱的な死を味わったお方だと、しっかりとこの心に刻んで頂きましょう。十字架、そして復活に、神の正しさがある。この謎めいた福音に、私たちの思いを向ける祈りの時を過ごしましょう。

2026年3月30日月曜日

2026年3月30日の聖句

あなたがたは、私が命じる言葉に何一つ加えても、削ってもならない。私が命じるとおり、あなたがたの神、主の戒めを守りなさい。(申命記4:2)
(パウロの手紙)私は、キリストが私を通して働かれたこと以外は、何も話そうとは思いません。キリストは異邦人を従順へと導くために、(私の)言葉と行いを通して働かれました。(ローマ15:18)

私が自分を省みて思うことは、自分の耳は都合良くできているな、ということです。自分には関係ないと思うこと、自分に都合悪いと思うことはうまく聞かないようにできてしまうのです。目も同じです。LINEでもメールでも、自分にとってあまり読みたくないことはうまく見逃してしまう。結局後で「言った」「言わない」の争いや禍根を残してしまうわけですが、無意識に聞き漏らし見ないで済ませてしまっているので、なかなか改善するのは難しいです。
「あなたがたは、私が命じる言葉に何一つ加えても、削ってもならない。私が命じるとおり、あなたがたの神、主の戒めを守りなさい。」
主はそう言われます。神の言葉に勝手に付け加えたり、勝手に削ったりして、自分の好いように造りかえるな、と言われるのです。本当にその通り。そう思います。しかし現に自分がしているのは、まさにここで戒められていることそのもの・・・と思います。
例えば、主イエスは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われます。この言葉を聞くとき、「悔い改めて」と主イエスが言われたのと同じ真剣さをもって聞いているだろうか。悔い改めなき神の国になっていないか。「罪を隠蔽した赦し」や、「赦しをカッコに入れた癒やし」になっていないか。弟子として従うことのない心の安寧になっていないか。神の恵みを、そのようにしてとても安っぽいものにしてしまってはいないだろうか。それは、B級品の恵みです。
パウロは、「キリストは異邦人を従順へと導くために」と言います。私たちは従順へ導かれました。実際に従うことです。罪を悔い改めることであり、弟子としてキリストの言葉を守ることであり、神の言葉をすべて信じる信仰です。
あなたも、私に従いなさい。主イエス・キリストは今日私たちにそのように語りかけておられます。

2026年3月29日日曜日

2026年3月29日の聖句

今週の聖句:
人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:14~15)

今日の聖句:
モーセは(主に)言った。「あなた自身が共に歩んでくださらないのなら、私たちをこころから上らせないでください。」(出エジプト記33:15)
(群衆は)なつめやしの枝を持って(イエスを)迎えに出た。そして、叫び続けた。
「ホサナ。
主の名によって来られる方に、祝福があるように
イスラエルの王に。」(ヨハネ12:13)

いよいよ受難週を迎えました。その始まりは、主イエスがエルサレムに入城なさった出来事です。人々はなつめやしの枝を振り、主イエスを王としてお迎えしました。ヨハネが伝えるところによると、側で見ていた弟子たちにはこの出来事の意味が分からなかったそうです。(ルカとはずいぶん違う書きぶりです。ぜひ、読み比べてみてください。)ヨハネにおいてその意味が彼らに明らかになったのは、主が栄光をお受けになったとき、すなわち復活なさったときでした。
つまり、ヨハネによると、この時の出来事は主の復活の栄光の小さな先取りだったということだと思います。主の復活は、王としての栄光です。私たちは、私たちの王でいらっしゃるお方の前にいる。今日、この受難週の最初の日にそのことを改めて覚え、畏れをもってへりくだりたいのです。
王であるお方が、これから十字架へと向かって行かれます。王であるお方を私たちは十字架につけた。その事実を深く心に刻み、祈りを献げつつ、この一週間を歩んでいきましょう。そのためにも、可能な方はぜひ受難週祈祷会にご出席ください。さがみ野チャペルでは木曜日10時30分から行われます。南林間の礼拝堂でも月曜日から金曜日まで、朝9時30分から行われます(木曜日は加えて19時からも)。Zoomでの配信(ID:844 9208 4685 パスコード:046)もあります。十字架にかけられた主の前にへりくだって進み出ましょう。

2026年3月28日土曜日

2026年3月28日の聖句

私たちを生かしてください。
私たちはあなたの名を呼び求めます。(詩編80:19)
しかし規定の病にかかっていた十人の男たちのうちのひとりは、自分が癒やされたことを見て取ると、引き返して来て、大声で神を賛美した。(ルカ17:15)

規定の病というのは、旧約の律法で規定された皮膚の病です。この病にかかると、その人は律法の規定に従って共同体の外に出なければなりませんでした。住まいは町の外。もしも誰かが自分に近づいてきたら「汚れている、汚れている」と叫ばなければなりません。その苦しみは肉体だけではない。心の底にまで食い込むような傷を負ったに違いないと思います。
この病は、他の病とは違って、自分で「治った」と言っても、治ったことにはなりません。あるいは医者から「治った」と言われても、それだけでは不十分です。祭司のところに行って「清くされた」と宣言してもらわないと、社会復帰することができませんでした。
主イエスは規定の病にかかった十人の人と出会います。主は彼らを癒やされました。上に書いたような社会通念に生きる人々にとってはたいへんな出来事です。規定の病に冒された人は汚れた人であって、自分たちとは違うもの。別の世界に生きる者。それがこの世界の常識だったのです。主はその常識や社会通念を打ち破って彼らを癒やされたのです。
主は、彼らに「祭司に体を見せなさい」とおっしゃいました。社会の中で彼らが生きられる道を拓いてくださった。主の優しさではないでしょうか。ところがその内の一人は、癒やされたことを知ると祭司のところへ行かずに主イエスのところへ戻って来たのです。「しかし規定の病にかかっていた十人の男たちのうちのひとりは、自分が癒やされたことを見て取ると、引き返して来て、大声で神を賛美した。」この物語は、私たちを本当に生かすのは誰なのか、と問いかけているように思います。社会通念や常識、あるいは祭司に見せるという手続きに代表される社会システム。通常はそういったものが私たちを生かしめていると考えられています。しかしあの人はそうではありませんでした。社会のあらゆる壁を侵犯して自分のところへ来てくださったお方こそが私を本当に生かしてくださるお方だと信じたのです。
私たちは「普通」になるために神を信じるのではありません。「みんなと同じ」になるためにキリスト者になったのではない。私たちの当たり前を犯して侵入する神の子は、この世界の常識では救われない私たちを神のものとするために、今日、あなたに御声を響かせておられるのではないでしょうか。

2026年3月27日金曜日

2026年3月27日の聖句

正義は命に
悪を追い求める者は死に至る。(箴言11:19)
自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。(ガラテヤ6:8)

「正義」という言葉が今日の旧約の御言葉にあります。そこで、旧約聖書の事典を引いたところ、「義」についてこのように書かれていました。
「一般的には『義』は、共同体に対する責任に言及する際に用いられる。(中略)義の最も広い適用範囲は、命と幸福を願う創造者によって規定される、創造の良い秩序に関係がある。ゆえに、責任をもって生きることとは、創造者が命じた範囲と要求に従うことなのである。従って、義とは、神の来たるべき統治の最も重要なしるしとなるのである。」
私たちに命を与え、私たちの幸福を願っていてくださる神さまがお命じになる要求に従うことこそが聖書の「正義」なのだ、と言います。
ですから「私の正義感」とか「人それぞれの正義」が問題になっているのではありません。神さまの慈しみを現し、共同体に共に生きる人への神の愛を体現することこそが真の正義なのだと思います。
私たちは、そのような意味での義を求めて生きているでしょうか?それとも、自分の満足ばかりに心を占められて悪を求める結果に陥ってはいないでしょうか。「悪を追い求める」は、言葉を換えれば「自分の肉に蒔く」ということです。私たちは自分の肉を満足させるために自分の正義に凝り固まるのか。それとも、神の義を求め、創造者の愛に従い霊に蒔く者として生きるのか。あなたはどう生きるか、と主は私たちに問いかけておられます。

2026年3月25日水曜日

2026年3月25日の聖句

主よ、立ち上がり、人間が勝ち誇らないようにしてください。(詩編9:20)
(イエスが弟子たちに語った言葉)「人の子は人々の手に渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する。」(マルコ9:31)

「人の子は人々の手に渡され、殺される。」
これが、今私たちの目に映っている状況ではないでしょうか。ある一人の男が十字架刑に処せられた。それは「歴史的に」確かめることができる事実ですし、世界史の中ではどこにでもあるような出来事と言えそうです。私たちの目に映って、確かだと思わせる出来事です。
問題は「科学的」に確かと言えるかどうかということだけではありません。私たちの目に飛び込んでくる現代にまで至る人間の生み出す歴史の出来事の一つひとつが、暴力の支配であり、豊かさの独占であり、貧しい人や弱い人、病気の人や障害を持っている人への抑圧と蹂躙です。自分に都合の好い神をこしらえてシステムを正当化し、自分たちの支配が正しいというお墨付きを得ようとする。現代の大国やその支配者も、同じように神の名を騙っているようです。
「人の子は人々の手に渡され、殺される。」主イエスがそうおっしゃった状況と現代私たちを取り巻いている状況はそっくりです。人間の罪が生み出す状況です。そういう意味では人の子イエスが十字架に掛けられたという事実は後から証明するまでもなく、私たちの世界のどこにでもある悲惨な出来事の一つです。そして私たちはそういうところで生まれる不都合な事実を直視しようとはせず、たいていの場合は放っておくのです。
ところが主イエスの御言葉はそこでは終わりません。「殺されて三日の後に復活する」と主イエスは言われます。これは、主イエスの側の、つまり神の側のアクションです。私たちがイエスを十字架に磔にした、私たちが神の子を殺したということに対して、神の側でなさったことが三日目の復活です。私たちの暴力や支配や抑圧の歴史に神は「否」を突きつけ、それを終わらせてしまわれた。それが主イエス・キリストの復活という出来事です。
これは私たち人間の歴史の中、これまでには全くない、新しい出来事です。ただ一度かぎりの出来事です。その意味では「歴史的」「科学的」に証明することはできません。そもそも神のただ一度の出来事を人間が証明するというのはおこがましいのではないでしょうか。それはエルサレムの郊外で、ある女性を証人として起こりました。あまりに小さな出来事なので私たちは見過ごします。そして、イエスを十字架に掛けた歴史だけが正当でリアリティがあり、説得力のあるものだと思い込んだままでいます。しかし、イエスは復活しました。この出来事はもう始まっています。私たちが知っていようといなかろうと。私たちが信じていようといなかろうと、キリストは復活し、神の国はもう来ているのです。あなたは神の告げるこの新しい出来事を、信じますか?

2026年3月24日火曜日

2026年3月24日の聖句

主はあなたの前に御使いを遣わされる。(創世記24:7)
「(イエスの言葉)父よ、御心なら、この杯を私から取りのけてください。しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください。」すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。(ルカ22:42~43)

今日の旧約聖書の御言葉は、アブラハムが息子イサクの妻になる人を探させるために自分の僕を遣わすときの言葉です。アブラハムは自分の召使いを故郷に遣わすに際し、いくつかの条件を彼に話して聞かせました。そして最後に「主はあなたの前に御使いを遣わされる」と言って彼を励まして送り出した。そういう場面です。
「主はあなたの前に御使いを遣わされる」というのは、主があなたの行く道を導き、必要を備えてくださるように、ということでしょう。もっと言えば、主が御心を行ってくださるように、ということであると思います。すべては神がお望みになるとおりになりますように。アブラハムも、そして私たちも、願うのはそのことです。
しかし、誰よりも神の御心を必死に願ったのは、主イエスさまをおいて他にはいません。主は十字架を前にして必死に祈りました。「父よ、御心なら、この杯を私から取りのけてください。」主イエスは「この杯を私から取りのけてください」と心から願いながら、あくまでも神の御心をすべての基となさいました。「しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください。」主が御心を成し遂げてくださいますようにと祈り、主の道を歩くことをお受け入れになられたのです。
主は私たちが今日歩む道の前にも御使いを遣わしてくださいます。私たちはそのことを信じ、主の御心が成し遂げられることを願い求めます。私たちの救いの道がそこに拓かれることを信じて、私たちも主を待ち望むのです。

2026年3月23日月曜日

2026年3月23日の聖句

私、私が主である。
私のほかに救う者はいない。(イザヤ43:11)
(イエスの言葉)私と父とは一つである。(ヨハネ10:30)

今日私たちに与えられている聖書の御言葉は、神さまの深い御決意の表明であると思います。「私、私が主である。私のほかに救う者はいない。」ただおひとりの救い主でいらっしゃるお方が私たちに言ってくださいます。「私、私が主である」と。
ここにある「主」というのは、神さまのお名前を現す言葉が使われています。「私、私が主である」と御自分のお名前を名乗り、他の誰でもなくこの私がお前を救うと宣言してくださっています。私たちには、主以外の救いはありません。
お名前を名乗るというのは、私たちとの関係を結ぼうという神さまのご意志の表れと言ってよいと思います。私たちにとっての真の救いというのは、私たちに向かって御自分のお名前を名乗ってくださるお方と関係を結ぶことです。神さまが私たちの名前を呼んでくださり、私たちが「主よ」とお呼びして祈る。それがもう既に救いなのです。
私たちには神さまなど分からない、神さまのことなど知りようがないと言う必要はありません。「私と父とは一つである」とイエス・キリストが言ってくださいます。私たちはキリストの言葉を聞き、イエスこそ父がお遣わしになったメシア、そして独り子なる神と信じるとき、私たちは「主」とお名前を名乗ってくださる神ご自身と出会っている。ですから、神さまとの関係を結ぶというのは、もう少し言葉を換えて言えば、イエスこそ救いと信じるということです。イエスに現された神の愛こそが神の御心と信じるということです。
「私、私が主である」と、今日、神さまはあなたに語りかけておられます。

2026年3月22日日曜日

2026年3月22日の聖句

今週の聖句:
人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た。(マタイ20:28)

今日の聖句:
隣人について偽りの証言をしてはならない。(出エジプト記20:16)
あなたがたが、すべて偽りは真理から生じないことを知っているからです。(1ヨハネ2:21)

今日の旧約聖書には「偽りの証言」と書かれています。証言と言っているのですから、裁判の席のことを考えているのでしょう。もともとそりが合わなかったり、利害が一致しない隣人について偽りの証言をして陥れてはならない、と言っています。
裁判での証人になったことは私にはありません。そういう経験をしたことがある人はどれくらいおられるでしょうか。直接の「裁判」という場でなくても、他人と利害や感情が衝突することは私たちには日常的なことだと思います。そんなとき、保身のためとか自己防衛のために、あるいは妬ましい人へのちょっとした嫌がらせをなんとなくしてしまって少しの嘘を言ってしまうようなことも、時にはあるかもしれません。
「隣人について偽りの証言をしてはならない。」聖書はそのように言います。さらに今日の新約では「あなたがたが、すべて偽りは真理から生じないことを知っている」とあります。ここでの「真理」は、学者が研究室で考え出した「真理」なるものではありません。主イエスさまが父なる神様の御許から来て、私たちに神の愛を示してくださったことを信じるところで輝く真理です。つまり「隣人について偽りの証言をしてはならない」というのは、私たちの真理であるイエス・キリストの前で隣人との関係を構築する、ということを意味していると言えると思います。
私たちは、私たちが信じる真理そのものでいらっしゃるキリストの前で、どのような人間関係を築くのでしょうか。私たちは、私たちを愛してくださったキリストを前にして、どのようにして関係を築くのでしょうか、利害不一致だったり気の合わない隣人と。

2026年3月21日土曜日

2026年3月21日の聖句

あなたは食べて満足するとき、あなたの神、主をたたえなさい。(申命記8:10)
言葉では言い尽くせない賜物のゆえに、神に感謝します。(2コリント9:15)

「衣食足りて礼節を知る」という言葉があります。確かにその通りではありますが、私たちの現実としては「衣食足りて礼節を忘る」ということもあるかもしれません。特に神さまに対してはそうです。衣食に事欠くときには「日用の糧をお与えください」と真剣に祈っても、衣食足りたら、まるで祈っても祈らなくても大したことがないかのように、ただのルーティーンとして口にしているだけ・・・というのが私たちの実際のところであるのかもしれません。
聖書は言います。「あなたは食べて満足するとき、あなたの神、主をたたえなさい。」私たちが生きるために必要な食べ物を与えてくださっているのは神さまです。主が私たちを養ってくださっています。そのことに真剣であれ、と聖書は語りかけます。なるほどと思いつつ、実際にはとても難しいことでもあると思います。
私たちの食べるもの、飲むもの、着るものについて、神さまが心に掛けてくださっています。食卓に並んでいる、決して当たり前ではない神さまの恵みの賜物を目の前にして、新しい気持ちで神様に感謝し、主のご慈愛をたたえましょう。今日、この後に食べるご飯の時に!
私の信仰の指導をしてくださった先生が教えてくださった食卓の祈りがあります。「主よ、私たちが生きるために必要なものを今日も与えてください。日ごとの糧と、罪の赦しを。」主の前にへりくだって祈り、私たちの命を支えてくださる方に向かって、今日も賛美を献げましょう。

2026年3月20日金曜日

2026年3月20日の聖句

見てください、私の苦しみと労苦を。
取り除いてください、私の罪のすべてを。(詩編25:18)
私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか。私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝します。(ローマ7:24~25)

今日の二つの御言葉が並べられているのを見て、驚きました。「私はなんと惨めな人間なのでしょう」と私が思うとき、恐らくそれは自分にとっての苦しみや労苦をとても感情的に捉えて言っているに過ぎない言葉になってしまうと思います。ところが、ここでは自分の罪を自分の惨めさと捉えています。
私が惨めなのは、私が罪を犯しているからです。罪人として、神に呪われた者として死ぬべきわたしの罪深さ。神が愛をもって、善い者として造ってくださったのに、神や隣人を憎んで逆さまな者になってしまった。苦しみの奥にある私の惨めさの正体をここで見据えています。
今日の旧約の御言葉も、よく読むと既に罪を問題にしています。「見てください、私の苦しみと労苦を。取り除いてください、私の罪のすべてを。」ここでもやはり「私の苦しみと労苦」は私の罪と深く結びつけられて理解されています。私が惨めな罪人だという現実が労苦を生み出している。そしてそれに喘ぎながら苦労して生きていると自分で自分を誇る・・・。こういうことをマッチポンプと言うのでしょうか。
ところが使徒パウロは突き抜けた福音を語り出します。「死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか。私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝します。」主イエス・キリストこそが私の罪と悪と死の現実を突き破り、私を命に救いだしてくださる。神への賛美は、私の罪が王様のような顔をしている現実への強烈なアンチテーゼです。別の王がいること、真の王がおられることを確信し、このお方に栄光を帰す。私を救ってくださるお方は、私の外から来て私の罪を解決してくださるお方だけ。聖書はそう告げているのです。

2026年3月19日木曜日

2026年3月19日の聖句

しかし私は、群れの残りの者を、追いやったすべての地から集め、自分たちの牧場へ帰らせる。彼らは多くの子を産み、増える。(エレミヤ23:3)
(イエスの言葉)私が来たのは、羊が命を得るため、しかも豊かに得るためである。(ヨハネ10:10)

預言者エレミヤは、ユダの国が滅んでいく時代の人物です。国が坂道を転がり落ちるようにして悪くなり、自滅していく時代に生き、神さまからのメッセージを語って警告し、信仰へと連れ戻そうとした。神の言葉を語り続けました。しかし、ユダの国も、そこに生きる人々も、加速度的に神さまから離れ、滅亡に突き進んでいきます。
この預言者のすごいところは、そういう時代を目の当たりにしながら、ただただ滅びや裁きだけを語ったのではない、というところだと思います。私たちは両極端のどちらかに触れてしまいがちだと思います。つまり、「あまり深刻にならなくていい、大丈夫だ」と事態を甘く見てしまう。あるいはその逆に、「もう終わりだ、何の希望もない」とひたすら悲観的になって諦めてしまう。エレミヤは、裁きの言葉を語りながらもそれだけに終始したわけではありません。「しかし私は、群れの残りの者を、追いやったすべての地から集め、自分たちの牧場へ帰らせる。彼らは多くの子を産み、増える。」主なる神さまによる回復の希望をも語ったのです。
これは私たちにも大きな示唆を与える言葉であると思います。心ある人が「今」を見れば、その悪さに耐えがたい時代ではないでしょうか。今この時代は、徹底的に神さまから果てしなく遠いところに迷い出てしまいました。この時代に生きる一人のキリスト者として本当に神さまに申し訳ないことです。しかし私たちにとって、周囲を裁いていたずらに悲観的になってみせるということもまたふさわしくないのだと思います。私たちはキリストを信じています。この時代にあって。今を生きる私たちの救い主であるお方として、キリストを信じている。だから、私たちにもなお希望がある。「私が来たのは、羊が命を得るため、しかも豊かに得るためである。」キリストは今を生きる私たちの世界に命を与えるために来てくださいました。このお方が実現してくださった救いを、この世界の中で証しすることが私たちの務めです。今を生きる私たちの救いは、イエス・キリストにあるのです。

2026年3月18日水曜日

2026年3月18日の聖句

私を顧み、憐れんでください。
あなたの僕に力を与えてください。(詩編86:16)
よくよく言っておく。あなたがたが私の名によって願うなら、父は何でも与えてくださる。(ヨハネ16:23)

私たちのお祈りは、多くの場合「主イエス・キリストの御名によって、アーメン」と終わります。「主イエス・キリストの御名によって」というのは、祈りを終えるための締めの言葉ではありません。キリストが「私の名によって祈れ」と教えてくださったから、私たちはキリストのお名前におすがりして祈っているのです。
例えば悪いことをしてしまったとき、子どもは親に一体どうやって事の顛末を説明し、謝ったらいいのか分からなくなってしまいます。親は怒っているだろうか、赦してくれるだろうか。そんなときに母が「わたしも一緒に謝ってあげるから」と言ってくれたら、どんなに気持ちが軽くなることでしょうか。父の前に進み出る勇気が湧いてくるでしょう。
主イエスは御自分のお名前で祈るように、と私たちに教えてくださいました。神さまの愛する独り子のお名前で私たちは祈っていいのです。神は必ず聞いてくださいます。そして私たちがイエスのお名前で祈るときに知ることは、神は実は怒って私たちを罰するお方ではなく、独り子を与えてくださるほどにわたしを愛してくださるお方だった、という事実です。
「私を顧み、憐れんでください。あなたの僕に力を与えてください。」私たちも、神さまを信頼して同じように祈ります。キリストのお名前で!主イエスさまの憐れみに導かれるようにして、神の憐れみを求めて祈ることができる。この祈りが私たちの力となるのです。

2026年3月17日火曜日

2026年3月17日の聖句

しかし見よ、わたしこそ、わたしこそそれである。わたしのほかに神はない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす。わが手を逃れうる者は、一人もない。(申命記32:39)
(イエスの祈り)「父よ、あなたはすべての人を支配する権能を子にお与えになりました。こうして、子はあなたから賜ったすべてのもの、つまり永遠の命を彼らに与えることができるのです。」(ヨハネ17:1~2)

キリストこそ真の王でいらっしゃると聖書は私たちに証しします。「キリストこそ王」という言葉自体は私たちもよく耳にするし、言葉として知識としてはよく知っていることではないでしょうか。しかしそれがわたしにとって実際のところ何を意味しているのかとなると、少し心許なくなるところがあるかもしれません。
「しかし見よ、わたしこそ、わたしこそそれである。わたしのほかに神はない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす。わが手を逃れうる者は、一人もない。」
主はそのように言われます。私たちの神であり、王である方、私たちを支配されるお方は、私たちの命に対して権威を持っておられる。
イランから、辛いニュースが日々もたらされます。この世の中で権力を持っている人は、他人の人生を大きく変えてしまったり、時にそれを奪ったりしてしまいます。恐ろしいことです。自分にそういう権威があると考えているのでしょうか。人間や、人間の造り出した悪は時にまるで命を奪う力をもっているかのように振る舞います。しかし、罪や悪には命を造り、与える力はありません。命を与え、生かし、癒やすことはできない。
私たちは神さまの前に謙虚にへりくだらなければならないのではないでしょうか。本当はこのお方にしか命に対する権威がないことを、身を低くして認めなければならないのではないでしょうか。神を王として崇めることを止めると、人間は化け物になります。ただ神だけが殺し、生かす権威をお持ちでいらっしゃることをへりくだって認めるところから平和が始まるのではないでしょうか。

2026年3月16日月曜日

2026年3月16日の聖句

神よ、若いときからあなたが教えてくださったので
今に至るまで私は奇しき業を語ってきました。(詩編71:17)
(パウロのテモテへの手紙)あなたは子どもの頃から聖書に親しんできました。この聖書が、キリスト・イエスに対する信仰を通して幸いに至る道を悟らせてくださるのです。(2テモテ3:15)

神学校で「釈義」というものを教わります。聖書に書いてあることを深く理解するためのいろいろな学問的手続きです。19世紀から20世紀にかけて、この分野の研究が進み、さまざまな学問的手続きが生まれました。ただ、正直言ってなかなかに難しく、私にとっては十分に理解できたとは言えないままに神学校を卒業してしまったところも少なからずありました。そんな私にとって大きな示唆をくださったのが、上智大学で教鞭を執っておられ、カトリック教会の司祭でもある雨宮慧という先生が提示しておられる釈義の方法でした。直接お目にかかることもなかなかできなかったので、半ば私淑するようにして雨宮先生の御著書を読み、ラジオでの放送を聞き、学びました。私の聖書の読み方に大きな影響を与えてくださった先生です。
あるとき、念願叶って雨宮先生に直接お目にかかる機会を得ました。お昼ご飯も一緒に頂きました。先生に質問し、答えて頂いた。その時に先生がおっしゃったのです。「私は、聖書には何と書いてあるかに関心があるのです。」神学者としては当たり前の言葉なのかもしれません。しかし私は深い感銘を受けました。本当にその通りと思います。
「この聖書が、キリスト・イエスに対する信仰を通して幸いに至る道を悟らせてくださるのです。」私たちに信仰を与え、幸いに導くのは、聖書の御言葉です。巷で聞こえるもっともらしい話とか、いい話ではない。聖書とその福音こそが私たちをキリストと出会わせ、信仰を与え、私たちに幸いを与える。その聖書の語る福音の言葉は今日も私たちに与えられています。神の語りかけに、日々耳を傾けていきましょう。

2026年3月15日の聖句

今週の聖句:
その麦が、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。(ヨハネ12:24)

今日の聖句:
助けることも、つまずかせることもできる力が神にはあるのです。(歴代誌下25:8)
二羽のスズメは1アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。ですから恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。(マタイ10:29,31)

「アサリオン」は新約聖書の時代の通貨の単位で、「デナリオン」の1/16の価値だそうです。1デナリオンは労働者の一日分の賃金と言われています。1アサリオンで雀二羽。一日働いた労働者がそれを数羽買って、家族の食事にしていたのでしょう。高級食材ではありません。多くの人が買って飢えをしのぐことのできる庶民の食材です。そんな雀の一羽でさえ、神は御心に留めていてくださる。一羽の雀の命さえも神が支えておられる。ましてあなたがたはたくさんの雀よりも価値がある。ましてあなたのことを神がお忘れになることがあろうか。いや、ない。万が一にもない。だから恐れるな、と主イエスは言われます。
主は、私たちの恐れを見抜いておられます。自分の命の価値について神に信頼することができないところから生まれる恐れです。自分で自分の命を守らなければならないと思い込むところに生じる恐れです。私たちの命は、神が慈しんでくださるほどに値が高いのだと主は告げてくださっています。この神の愛を信じてほしい。それが主イエスが今日私たちに告げてくださっている福音です。

2026年3月14日土曜日

2026年3月14日の聖句

私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導きだした者である。(出エジプト記20:2)
愛するきょうだいたち、自由へとあなたがたは召されたのです。ただ、この自由を、身勝手であることの言い訳にはせず、愛をもって互いに仕えるようにしなさい。(ガラテヤ5:13)

我が家の子どもたちがもう少し小さかった頃、教育テレビを見ていたら「お天気自動販売機」という歌が流れていました。明日は晴れてほしい人がお天気自動販売機で晴れの天気を買う。別の人は雨になってほしい、他の人は雪、やっぱり晴れ・・・と、いろいろな人が自動販売機に注文するので、天使がめまぐるしく変わって混乱する、という愉快な歌です。コミカルで笑いを誘う歌ですが、恐ろしい歌です。お天気に限らず、神さまを自動販売機のように自分の注文を黙って聞いてくれる僕にしてはいないか、と考えさせられます。
神さまは自由なお方です。私たちの僕ではありません。しかししばしば私たちは神さまを自分の下僕のように扱います。自分の願いのとおりにしてくれて当然、そうではない神なんて信じるに値しない、と。そうやって神さまを自分に仕えさせるような礼拝や祈りを、聖書は「偶像崇拝」と呼びます。しかし神さまは偶像に貶められてはならないお方です。自由な方、聖なる方です。神さまは私たちが自分を正当化するための手段ではないし、私たちの便利に仕える奴隷ではないのです。
自由な神の僕であるから、私たちもまた自由な存在です。神の自由を映し出すところに人間の尊厳があるのだと思います。だから、私たちがもしも他人の自由を毀損するとしたら、それはあってはならないことなのではないでしょうか。私たちは自分に与えられた自由を身勝手の言い訳にしてはならない。自由な神の僕として、神が私にしてくださったように自由な愛に生きるために私たちは召されたのです。

2026年3月13日金曜日

2026年3月13日の聖句

人の歩みは主によって確かなものとされ、その人の道を主は喜ばれる。
彼は倒れても、打ち捨てられることはない。
主がその手を支えてくださる。(詩編37:23~24)
(ペトロは)「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして(ペトロを)捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。(マタイ14:30~31)

今日の主イエスの御言葉に触れ、とても反省させられます。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と主は言われます。私はすぐに「自分は信仰が薄いから」とか「自分の信仰は弱いから」とか、そのようなことを軽々しく言ってしまいがちです。しかし、そのような言い訳は主イエスにとっては愚にもつかないことなのであって、自分の信仰の弱さは何の言い訳にもなりません。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。主は、私が疑うことなくまっすぐに信じ、信頼することを求めておられます。言い訳しながら信じることを留保するのではなく、素直に信じることをお喜びくださるのではないでしょうか。
主は、その御手をもって私たちを支えてくださいます。必ず支えてくださいます。ペトロに手を伸ばしたように、主が私を必ず掴んでくださる。主なる神さまの約束を信じましょう。そして、平安でいましょう。キリストの手は私たちが考えているよりもずっと確かです。
今日も主イエス・キリストの霊があなたと共にいてくださり、あなたの行くのも帰るのも主が守ってくださいますように。主イエス・キリストの恵みと平安がありますように。祝福を祈ります。

2026年3月12日木曜日

2026年3月12日の聖句

彼が受けた打ち傷によって私たちは癒やされた。(イザヤ53:5)
イエスは、私たちの過ちのために死に渡され、私たちが義とされるために復活させられたからです。(ローマ4:25)

今日の御言葉は、神秘的な響きがあると思います。「彼が受けた打ち傷によって私たちは癒やされた。」どういうことなのでしょうか。「彼が受けた打ち傷」が私たちを癒やすというのは、どういう意味なのでしょうか?
何よりも先ず、この「彼」は主イエス・キリストをおいて他にはいません。主イエスがお受けになった傷によって私たちは癒やされた。そのことを今日の新約の御言葉はこのように言っています。「イエスは、私たちの過ちのために死に渡され、私たちが義とされるために復活させられたからです。」
この御言葉がはっきりと言っているのは、主イエスが死なれたのは私たちの過ちのためであった、ということです。つまり、私たちが過ちを犯してイエスを殺したと言っています。私たちが主イエスを殺したのです。私が神の子を殺した。この事実が罪の正体です。私たちは自分のためであれば神の子でさえ殺してしまいます。ところがそのイエスを神は復活させられた。「(イエスは)私たちが義とされるために復活させられたのです」。死者の中から復活した真の王メシアとして、イエスは私たちを義としてくださる。私たちを神の前に立たせてくださる。
「彼が受けた打ち傷によって私たちは癒やされた。」私たちは、神の子を殺した。このお方が受けた打ち傷によってでしか救われないほどに罪深い、ということではないでしょうか。私たちが傷を負わせ、殺したお方を神は復活させて私たちを義としてくださいました。私たちは、私たちが憎んで殺したお方の憐れみによってでなくては救われようがないのです。

2026年3月11日水曜日

2026年3月11日の聖句

私の魂はあなたの救いを待ち望んでいます。
あなたの言葉に希望を置いているのです。(詩編119:81)
夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で霊どもを追い出し、病人を皆癒やされた。(マタイ8:16)

主イエス・キリストは悪霊に取りつかれた者や病人を受け入れ、あるいはご自分の方から彼ら・彼女らのところへと出かけて行かれました。主は、救いを待ち望む魂のところへ向かい、ご自分のもとに逃れる者を受け入れてくださいます。
「悪霊に取りつかれた」というのは、現代の言葉で言うならば、何らかの心の病、あるいは原因不明の病苦などを意味していたのかもしれません。いずれにしても「悪霊に取りつかれている」と言われた人々は厳しく差別されて共同体から排除されたり、非人間的な扱いを受けたりしていたようです。「夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。」どうして夕方だったのでしょうか。はっきりしたことは分かりませんが、もしかしたら、できるだけ人目につきにくいように昼間を避けたのかもしれません。そうやって連れてこられた人々を、主は喜んで受け入れてくださいました。
キリストは社会が引いた境界線を大胆に越えていかれます。私たちの常識や社会の成り立ちを飛び越えてしまわれます。キリストは越境し、私たちに御言葉を語りかけます。私たちに自由と解放をもたらす福音の言葉を宣言なさるのです。私たちを縛り付ける悪霊を追い出し、私たちを抑圧する時代の精神と対決する言葉、将来を開く言葉を語り出される。私たちが今耳にしているのは、キリストの新しい世界を生み出す御言葉なのです。

2026年3月9日月曜日

2026年3月9日の聖句

天はあなたのもの、地もまたあなたのもの。
世界とそこに満ちるものは
あなたが礎を築いたもの。
北も南もあなたが創造された。(詩編89:12~13)
神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の全域に住まわせました。(使徒17:26)

主なる神さまの手は、大きいです。天も地も、そこにあるものもすべては神がお造りになりました。私たちが生きている地そのものを支えている礎もまた神が築かれたもの。途方もない話です。主は私たちの思いの及びもつかない途方もなさでもって私たちを支えてくださり、私たちを今日も生かしてくださっています。
「神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の全域に住まわせました。」私たちの命は神が下さったものです。最初の人間もまた神がお造りになりました。神が創造してくださったから人間は存在している。神が造った命が私のことをも生んだ。ここに私がいるということ自体が神の途方もない御業のなせることです。
果てしなく大きな、この宇宙のすべてをお造りになった方が私のことも造ってくださり、命を与え、今日も憶えていてくださる。驚くべきことです。主の憐れみに驚き、このお方をたたえて今日という日を生きていきたい、と願います。こんなに小さな私をも、世界の支配者が憶えていてくださるのです。

2026年3月8日日曜日

2026年3月8日の聖句

今週の聖句:
鋤に手をかけてから、後ろを振り返る者は、神の国にふさわしくない。(ルカ9:62)

今日の聖句:
わが主よ、もしわたしがあなたの前に恵みを得ているなら、どうぞしもべを通り過ごさないでください。(創世記18:3)
イエスは言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、あなたの家に泊まることにしている。」(ルカ19:5)

毎月2度ほど本厚木にあるYMCAの保育園で礼拝のお手伝いをしていますが、ここのところ、三月の卒園式にも出席させて頂いています。毎年楽しみにしているのは、卒園アルバムを子どもたちに渡す場面です。卒園する5歳児のクラスを担当している保育士さんが一人ひとりの名前を呼び、子どもが前に出てきて、手渡します。渡す時にそれぞれの子どもにメッセージを送っています。それがとってもステキなのです。一人ひとりの子どもとの思い出を大切にした、心を込めた言葉に毎年感動しています。子どもは自分の名前が呼ばれるまでドキドキしながら待っていることでしょう。
今日の旧約の御言葉ですが、このように書かれています。「わが主よ、もしわたしがあなたの前に恵みを得ているなら、どうぞしもべを通り過ごさないでください。」神が自分を憶えてくださる。私の前を通り過ぎず、むしろ私のところへ来てくださる。こんなに有り難いことはありません。「もし私があなたの前に恵みを得ているなら」と言っています。神が私を覚え、私の名を呼び、私に心を込めた愛を送ってくださっているという事実を知らされることが、私たちのための神の救いなのではないでしょうか。
主イエスさまはザアカイを覚え、ザアカイのところへ来てくださいました。ザアカイは徴税人の仕事をしていたこともあって、町いちばんの嫌われ者でした。しかしキリストはザアカイに恵みを示してくださいます。ザアカイのことを覚えていてくださる。ザアカイの前を通り過ぎてしまうようなことはなさらない。ザアカイを見つめて言ってくださいます。「今日は、あなたの家に泊まることにしている」と。
主イエス・キリストは最上の愛を込めてあなたを憶えていてくださいます。キリストは他ならぬあなたのところへ来てくださいます。今日、キリストの福音を聞いたとき、キリストはあなたを訪れてくださっています。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、あなたの家に泊まることにしている。」これは、あなたを呼ぶキリストの声です。

2026年3月7日土曜日

2026年3月7日の聖句

なぜ国々は言うのか。「彼らの神はどこにいるのか」と。
私たちの神は天にいまし
御旨のままにすべてを行われる。(詩編115:2~3)
イエスは言われた。「私を見る者は、父を見ることになるのだ。」(ヨハネ14:9)

今日の旧約聖書の御言葉は「なぜ国々は言うのか」と始まっています。ここで言われている「国々」というのは、主なる神さまを信じいない人々ということであると思います。神を信じない者が私たちに向かって言うのです。「お前が信じる神はどこにいるのか」と。一体どう答えたらいいのでしょうか。
「彼らの神はどこにいるのか」という言葉の後には、いろいろな言葉が続くのではないかと思います。「もしもあなたが信じるような神が本当にいるのなら、どうして世の中にこのように悪がはびこっているのか」「どうして不幸が続くのか」「どうして私はこんなに苦しまなければならないのか」・・・。
詩編は「彼らの神はどこにいるのか」という問いに答えています。「私たちの神は天にいまし、御旨のままにすべてを行われる」。神は私たちが手を届かせてコントロールすることのできるような方ではない。神は天におられる。そして、今日も生きて働いておられる。神はご自身の御旨のままに、御業を行っている。今、私たちにその意味がすべて分からなくても、私たちには「なぜ?」という問いしかのこらない現実であっても、必ず神の御業は進んでいる。すべての出来事は永遠の祝福に必ず至るプロセスです。これは、そう信じる告白です。
主イエスは天の父でいらっしゃる神を示しておっしゃいます。「私を見る者は、父を見ることになる」と。私たちが神について知るべき事はすべてキリストが現してくださった。キリストと出会うとき、私たちは神ご自身と出会っている。ですから、私たちは問いを抱えつつ、キリストに目を注ぎ、キリストの言葉に耳を傾けます。私たちは「お前の神はどこにいるのか」と繰り返し問われます。そのたびに、私たちはキリストを指さします。ここにいる、ここに神がおられる!私たちの問うすべての「なぜ」を背負っておられるキリストこそが私たちの信じる神ご自身なのです。

2026年3月6日金曜日

2026年3月6日の聖句

正しき者は弱い人の訴えを認める。(詩編29:7)
イエスは(その議員に)言われた。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、私に従いなさい。」(ルカ18:22)

今朝の主イエスの御言葉を聞くと立ちすくんでしまいます。「主よ、できません」としか言えず、それ以上の言葉が出てきません。主の言葉の通りに生きている人は知っています。しかし、自分のこととして、主イエスのこの御言葉に文字通りに従っているかと言われれば、そうではない。私もこの議員と同じように、悲しみながら立ち去らなければならない。恥ずかしいことですが、正直に言って、私はそのような人間です。
主イエスの側でこのやりとりを見ていた人たちも同じ感想を抱いたのだと思います。「それでは、だれが救われるのだろうか」と言っています。本当にそうです。一体誰が救われうるのでしょうか?いや、そのように生きている人、そのように信じて実践している人はいるでしょう。しかし、私は救われようがありませんと言わざるを得ない・・・。
主イエスはさらにおっしゃいます。「人間にはできないことも、神にはできる」。私たちはただただ神の憐れみにおすがりするしかありません。私には、私ひとりを救う力もありません。自分でも自分のことをどうすることもできないのです。しかし、神にはこんな私を救うことがおできになる、と主は言われます。持っている物に執着し、お金にしがみつき、神さまに明け渡すことのできない、バカでケチでお金の亡者のような私を、主は救うことがおできになる。そのことをひたすら信じ、ただ憐れみを請うだけです。

2026年3月5日木曜日

2026年3月5日の聖句

私の手は地の基を据え、私の右の手は天を押し広げた。
私が呼びかけると、それは共に立ち上がる。(イザヤ48:13)
私たちの主、また神よ
あなたこそ栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。
あなたは万物を造られ
万物はあなたの御心によって存在し
また造られたからです。(黙示録4:11)

今日の新約聖書の御言葉はヨハネの黙示録です。聖書の最後に収められているこの小さな書は、パトモス島に流刑にされていた一人の人が見た幻を書き記したものです。著者ヨハネを取り囲んでいる現実は果てしなく厳しい。信仰のために島流しになってしまった。圧倒的な帝国の力がある。逆らいようもないし、救いも見えない。しかしそれでも、ヨハネは日曜日になるたびに神に礼拝を献げていました。そして、礼拝を献げる中で彼は知ったのです。今、私を取り囲んでいる「現実」よりももっと確かなことがある。私の小さな礼拝は、ただの無力な、あってもなくても大して意味もないものではない。この小さな礼拝は天での礼拝に共鳴しているのだ。ヨハネはこの信仰によって生かされた。
今日の御言葉は天での礼拝の様子を描いている場面です。天の玉座におられる神の前で礼拝が献げられ、栄光に神にお返しする言葉です。神こそすべての栄光と誉れと力を受けるにふさわしいお方。このお方が万物を造り、万物は神の御心によって存在している。この圧倒的な神の御業を、絶海の孤島である流刑地パトモスで信じたのがヨハネという人でした。
今あなたを取り囲んでいる現実は、どのようなものでしょうか。その現実と神さまと、どちらの力が強いとあなたは信じているのでしょうか?あなたが献げる礼拝は、ただの世界の片隅の小さな営みに過ぎないのでしょうか?あってもなくてもどちらでも構わない、趣味を同じくする人のサークル活動に過ぎないのでしょうか?
そうではありません。あなたが献げる礼拝は天の礼拝と共鳴しています。あなたが献げる賛美は神の前で栄光をお返しする天の声と同じ声です。あなたが礼拝しているお方は、この世界を造り、今も支配しておられる方です。その圧倒的な事実を、あなたは信じていますか?

2026年3月4日水曜日

2026年3月4日の聖句

主を喜びとせよ。
主はあなたの心の願いをかなえてくださる。(詩編37:4)
このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子どもには良い物を与えることを知っている。まして、天におられるあなたがたの父は、求める者に良い物をくださる。(マタイ7:11)

「主はあなたの心の願いをかなえてくださる」と聖書は言います。この言葉を聞いてどのように思われるでしょうか。「本当にそのとおりです」と思われるでしょうか。それとも「嘘だ。私には良いものをくださらなかった」と思われるか。感じ方は人によって様々ではないかと思います。あなたはどのように思われますか。
主イエスは言われます。「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子どもには良い物を与えることを知っている。まして、天におられるあなたがたの父は、求める者に良い物をくださる。」主は、私たちの「親心」を引き合いに出しておられます。親であれば子どもに良い物を与えたいと考えるはずだ。パンを欲しがる子どもに石を与える親はいないし、魚を食べたいと言っている子どもに蛇を与えるようなことはしない。もしあなたが悪人だったとしても、親として自分の子どもには良い物を与えようとするではないか。私たちでさえそのような親心を持っているならば、まして天におられる父はいちばん良い物をくださるはずだ。主の御言葉に促されて、まず何よりも天の父の慈しみを信頼しましょう。
さらに問わないわけにはいかない。私たちにとって一番良い物とは一体何か。私たちは何を求めて生きているか。私たちの深いところにある求めやニードは一体何か。少し角度を変えて問います。私たちは「十字架」が答であるような求めを持っているでしょうか。「キリストの復活」が自分の必要であると気付いているでしょうか。「主の弟子として従うこと」が自分にとって何よりも大事な価値だと私たちは知っているでしょうか。私たちは、何を求めて生きているでしょうか?
「主を喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」この御言葉は私たちの願いや求めを新しくします。主を喜びとし、主を賛美することこそが私たちの真の幸せだと気付かせます。私たちが主を賛美するために生きているのだと、私たちはキリストの与えてくださった賜物によって知るのです。つまり、キリストが私たちに与えてくださる最良の贈り物である聖霊によって、私たちは新しくなり、神に向かって生き、神を求める者として新しく生まれるのです。天の父の子として!

2026年3月3日火曜日

2026年3月3日の聖句

イスラエルの人々は主に向かって叫び、言った。「私たちはあなたに対して罪を犯しました。私たちの神を捨てたのですから。」(士師記10:10)
(洗礼者ヨハネの言葉)「悔い改めよ。天の国は近づいた。」(マタイ3:2)

洗礼者ヨハネが「天の国は近づいた」と言っています。たいへんな言葉です。天の支配、つまり神の御支配がもうここに来ている。そうであるならば、「私の支配」は終わるということを意味します。私のために生きてきた私はもう死なねばならない、ということを意味するはずです。天の国が来たからです。神の前に古い私は死なねばならない。その事実を認めるのが「悔い改める」ということではないでしょうか。
「悔い改めよ」と言われても、悔い改めなければならないほど悪いことをした覚えなんてないと思われるかもしれません。小さな嘘やちょっとした隠し事はしたことがあるかもしれないし、ケンカをしたときに悪い言葉が口からついて出てきたことくらいはあるかもしれない。しかし、そんなに大げさに「悔い改め」と言われなければならないほどのことなのでしょうか。
「悔い改めよ。天の国は近づいた。」この言葉はヨハネだけの言葉ではありません。主イエスも同じ言葉で福音を宣言なさいました。「天の国は近づいた。」主イエスがそのように宣言なさるとき、その言葉は具体的な出来事に裏打ちされていました。主イエスが来られた、という出来事です。私たちのところへ来た天の国、それは主イエス・キリストご自身です。キリストこそ、私の支配を終わらせる神の御支配そのものです。キリストを仰ぐときに私たちは気付かないわけにはいきません。私はこのお方を捨てた。私は神の子を捨てた。私たちも今日の旧約の御言葉と共に祈らなければならない。「私たちはあなたに対して罪を犯しました。私たちの神を捨てたのですから。」
主が求めておられる悔い改め、それはあんな失敗こんな悪いことという話ではありません。私の存在そのものが歪んでしまって神を捨てて生きてきたことそのものを意味している。私がひねくれ、ねじれてしまって、神様と隣人を愛して生きることができなくなっている。そんな私という存在の性根の部分が歪んでいることを主は見ておられる。存在の土台の部分において私は死なねばならないのです。
「悔い改めよ。天の国は近づいた。」これは、しかし、福音の宣言です。天の国が来たのです。死んだ者を神が復活させてくださる。復活させてくださるのは、天を支配する神さまです。私があなたを復活させる。キリストを死者の中から引き上げられた神ご自身がそう宣言しておられます。

2026年3月2日月曜日

2026年3月2日の聖句

地の果てに至るまで、すべての人が主に立ち帰るように。(詩編22:28)
東から西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に宴会の席に着く。(マタイ8:11)

「東から西から」と言ったとき、私たちがいるのは、マタイがこの福音書を書いていたときには思ってもみなかった東の果ての果てでしょう。そこにも主の民が起こされています。西の果てのそのまた果てでも同じです。神さまは私たちの小さな頭で考えられる限界をはるかに超えた御業を行ってくださって、私たちは世界中から神の民として呼び集められました。人間にはできないことです。
そんな大勢の人、私たちのような地の果てにいる者も、天の国の宴会に招いてくださいました。アブラハム、イサク、ヤコブと一緒にその席に着く、と主イエスはおっしゃいます。いつか私たちがアブラハムと同じ食卓に着くことになるというのは、神さまにしかおできにならない御業ですし、想像すると愉快なことです。考えられないような神さまの御業の広がりの中に、私たちの今日の一日もおかれています。
私たちは今日私たちが生きるべく遣わされているところで、主を賛美し、主を崇めて生きていきましょう。神様の御前に、主の招きに応えましょう。そして、私たちばかりでなくすべての人に主の招きを届けるために、証しを立てる者となれますように。

2026年3月1日日曜日

2026年3月1日の聖句

3月の聖句:
イエスは涙を流された。(ヨハネ11:35)

今週の聖句:
まだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んだことにより、神は愛を示されました。(ローマ5:8)

今日の聖句:
あなたがたは生きていくために、あなたがたの神、主を愛するようにひたすら心がけなさい。(ヨシュア23:11)
神の戒めを守ること、これが神を愛することだからです。その戒めは難しいものではありません。(1ヨハネ5:3)

今日の旧約聖書の御言葉は、日本語版の『日々の聖句』を作成した人がドイツ語訳聖書から和訳したものだそうです。私はこの訳の中に出て来る「ひたすら心がけなさい」という言葉がとっても強く心に残りました。好い言葉です。私たちがひたすら心がけていることは、一体何でしょうか。聖書は他の何でもなく、主を愛することをひたすら心がけるように私たちに求めます。そうありたい、とわが心に語りかけます。
その主はどういうお方なのかというときに、今月の聖句として与えられている御言葉が心に残ります。「イエスは涙を流された。」主イエスさまは涙を流されるお方です。悲しまれるお方です。家族を亡くし、泣いている者たちをご覧になったとき、主は涙を流してくださる。その悲しみを共にしてくださる。私たちの悲しみの中に来てくださるお方です。悲しみを共にするという仕方で私たちを愛してくださったお方です。
私たちも、主イエスさまを愛します。主を愛することをひたすら心がけます。私と共に悲しみ、私のために涙を流してくださる憐れみに満ちたお方を、私たちも愛します。

2026年4月15日の聖句

主の前に大いなる激しい風が吹き、山を裂き、岩を砕いたが、主はその風の中にはおられなかった。激しい風の後に地震があったが、地震の中にも主はおられなかった。また、地震の後に火が起こったが、火の中にも主はおられなかった。しかしその火の後に、柔らかなそよ風のささやきが聞こえた。(列王...