もしあなたがたの地で、寄留者があなたのもとにとどまっているなら、虐げてはならない。(レビ記19:33)
(イエスの言葉)私の命じることを行うならば、あなたがたは私の友である。(ヨハネ15:14)
主イエスは私たちをご自分の友と呼んでくださいます。主はおっしゃるのです。友はその友の考えていることやしていることを知っているはずだ、と。主イエスが私たちのためにかがみ込んで足を洗い、仕え、愛してくださったこと。私たちのためにご自分の命を捨ててくださったこと。私たちの友であるイエスさまに示された神さまの御心を知り、友としてその歩みを友にする。「私の命じることを行うならば、あなたがたは私の友である。」
(イエスの言葉)私の命じることを行うならば、あなたがたは私の友である。(ヨハネ15:14)
主イエスは私たちをご自分の友と呼んでくださいます。主はおっしゃるのです。友はその友の考えていることやしていることを知っているはずだ、と。主イエスが私たちのためにかがみ込んで足を洗い、仕え、愛してくださったこと。私たちのためにご自分の命を捨ててくださったこと。私たちの友であるイエスさまに示された神さまの御心を知り、友としてその歩みを友にする。「私の命じることを行うならば、あなたがたは私の友である。」
今日、特に私たちに友イエスの御心として教えられているのは、このことです。「もしあなたがたの地で、寄留者があなたのもとにとどまっているなら、虐げてはならない。」寄留者というのは外国から来て寄留している人のことですから、現代の言葉で言えば移民や難民ということになります。この人たちを決して虐げてはならない、と友イエスはお命じになる。
こういうところを読むと、私たちは考えるかもしれません。「今から何千年も前の世界と現代社会は違う。出入国管理の制度や社会システムが違うし、今起きているような移民問題や外国人犯罪の問題を古代社会は知らなかったのではないか。」そうでしょうか。レビ記が書かれた時代は今よりもずっと共同体の単位が小さく、一つひとつが閉鎖的でした。寄留者に代表されるよそ者が今よりもずっと目立つ時代です。現代よりも彼ら彼女らに向けられる目ははるかに厳しかったと思います。しかし、友イエスは言われる。「もしあなたがたの地で、寄留者があなたのもとにとどまっているなら、虐げてはならない。」
私たちは現代社会を席巻する「ヘイト」や「分断」の物語を生きてはいません。外国人を排斥することで社会がよくなるという神話を信じません。よそ者がいるから社会が悪くなったという信仰は共有しません。私たちは、私たちのためにキリストが身をかがめて足を洗い、ご自分の命を献げ、私たちを愛し抜いてくださったというキリストの救いの出来事を生きています。私たちは、この世に吹き荒れる憎しみの物語に乗っかるのでしょうか。それとも、私たちの友になってくださったキリストのご命令に生きるのでしょうか。
こういうところを読むと、私たちは考えるかもしれません。「今から何千年も前の世界と現代社会は違う。出入国管理の制度や社会システムが違うし、今起きているような移民問題や外国人犯罪の問題を古代社会は知らなかったのではないか。」そうでしょうか。レビ記が書かれた時代は今よりもずっと共同体の単位が小さく、一つひとつが閉鎖的でした。寄留者に代表されるよそ者が今よりもずっと目立つ時代です。現代よりも彼ら彼女らに向けられる目ははるかに厳しかったと思います。しかし、友イエスは言われる。「もしあなたがたの地で、寄留者があなたのもとにとどまっているなら、虐げてはならない。」
私たちは現代社会を席巻する「ヘイト」や「分断」の物語を生きてはいません。外国人を排斥することで社会がよくなるという神話を信じません。よそ者がいるから社会が悪くなったという信仰は共有しません。私たちは、私たちのためにキリストが身をかがめて足を洗い、ご自分の命を献げ、私たちを愛し抜いてくださったというキリストの救いの出来事を生きています。私たちは、この世に吹き荒れる憎しみの物語に乗っかるのでしょうか。それとも、私たちの友になってくださったキリストのご命令に生きるのでしょうか。