2018年5月16日水曜日

詩編第119編17から24節「宿り人として生きる」

「この地では宿り人にすぎないわたし」と言っている。ハワーワスという米国の神学者がかつて“Resident Aliens(在留外国人)”という本を書いた。神の国に生きるキリスト者はこの世では在留外国人だと言う。私たちはこの世では宿り人であり、異文化の中を生きているようなもの。そんな私たちが生きるべき指針は主の戒め、聖書の言葉なのだ。私たちの目を聖書に注ごう。その言葉に耳を傾けよう。世が示すのではない生きる道を求めて。

2018年5月13日日曜日

ルカによる福音書6:6〜11「とびきりの日曜日のすごしかた」

安息日の話です。私たちで言えば日曜日にあたりますが、主イエス様の時代の安息日には(あるいはユダヤ社会の安息日には、と言った方が良いかもしれません)、今の日曜日と少し感覚が違うところがあるかもしれません。主イエスが安息日の律法に従わないと言って人々が怒り狂っています。なぜ、ここまで起こる必要があるのか、と私たちからすると少しいぶかしく思います。なぜなのでしょう▼安息日の律法は、律法の中心である十戒の真ん中に登場します。神さまが天と地をお造りになり、七日目に休まれたことを覚えて、あるいは神さまが奴隷の家エジプトから救い出してくださったことを記念して、七日目には仕事を休んで、神さまの御業を思い起こす。ついては自分だけではなく、家族も、家の奴隷も、みんな仕事を休んで、神さまが救ってくださったことを思い出して感謝する。安息日はもともとはそのための日です。そういう七日に一度の特別な時間を共有するところで、神さまを信じる民は自分たちのアイデンティティを確かにしていきました。少し感覚的に違うとは言っても、私たち現代の教会も日曜日に礼拝することでキリスト者として生きているのですから、本質的には同じです。ところが、イスラエルの長い歴史の中で、休むというのは具体的に何を休むのかという判例集が生まれていきます。家の中で一日中寝ているわけには行かないので、どのくらいの距離なら歩いていいのか、どの家事ならしても良いのか、一つひとつを具体的に線引きしていくようになります。そうしているうちに、安息日のルールを守ること自体が目的になって、最初の精神が見失われていく…。主イエスの時代はそういう状況だったのかも知れません▼もともと良いものだったのが歪んでしまったときに、知らず知らずのうちに私たちを苦しめるというのは少なくないことです。今、私のメガネが歪んでいます。(小さな子どもを育てながらメガネを歪ませないのは至難の業です。)メガネは目的にかなった正しい形をしていないと、頭を痛くさせてしまいます。今朝の主イエスの周囲で起きている安息日の掟を巡る律法学者たちの反応も、歪んでしまっているのかもしれません。そうすると、元々は良いものだったはずのものが、人間を苦しめることになりかねないのです▼一人の手の萎えた人。律法学者たちにとっては主イエスを試す格好の材料でした。彼らは見失っていました。彼もまた一人の尊厳ある人間だということを。主イエスだけが、そのことをご存知だったのです。主は彼らに問いました。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」そして、彼の萎えた手を治してあげました。主イエスは、この一人の人を、一人の人間として見ていてくださったのです▼安息日は、神さまが私たちを救ってくださったことを思い出すための日です。神さまが私たちに命を与え、永遠の祝福を下さっていることを心に刻む日です。ですから、最もこの日にふさわしいのは、キリストの愛を一心に受けるために心を開くことです。私たちの尊厳を回復するために、イエス・キリストは私たちのところへ来てくださいました。罪と悪から私たちを取り戻してくださいました。私たちは、フトすると自分はそれほど価値がないとか、隣人の価値を見失ってしまうとか、謝ってしまいます。しかしキリストは私たちを「人間」として取り戻すために、安息日にも働いておられます。

2018年5月10日木曜日

詩編第119編9から16節「主の物語を、この口に」

「あなたの口から与えられた裁きを、わたしの唇がひとつひとつ物語りますように。」この世界には、いろいろな物語がある。良い物語もあれば、悪しき物語もある。敵意や憎しみをあおる物語もたくさんあるし、あるときにはそのようなものに私たちの心は奪われてしまう。どうしたらそのようなものにさらわれないのか。主の口が与えてくださる裁きを物語ることによる。私に代わって裁かれたキリストの物語が、私を神のみもとへ連れ戻す。

2018年5月6日日曜日

ローマの信徒への手紙第6章3から11節「扉は開かれた!」

この前の月曜日に墓参に行きました。妻の祖父母の遺骨が納められています。年をとってから二人揃って洗礼を受け、数年間の信仰生活を送りました。たいへんな時代を生き抜いてきた世代の人です。本人たちが信仰を得るよりも先に、神がその100年近い人生の旅路を生かしてきてくださっていたことを改めて思う一日でした。これまで多くの人たちが言ってきたとおり、人生は一つの旅なのだと思います。何よりも、聖書はキリストの御生涯を既に一つの旅路と捉えているのではないかと思います。キリストは、あのクリスマスの夜に飼い葉桶の中に生まれました。神の子である方が、謙って、僕の姿になってお生まれになりました。この世界は、神の子イエス様にとっては、異郷であったと思います。しかし、十字架の死に至るまで謙ることによって、神様がどんなに愛と憐れみに溢れ、私たちを愛してくださったのかを主イエスは示してくださいました。十字架にかけられ、イースターに復活したキリストは、40日間弟子たちと共におられて、やがて天に帰って行かれました。今年で言えばイースターから40日目は510日ということになります。主の昇天の記念日、それは、クリスマスとは逆に、まことに人でいらしたイエス様が天の故郷へと帰って行かれた日です。人間イエスの帰郷。主イエス様は私たちの人生という旅路がどこから始まってどこに向かっているのかを、身をもって教えてくださいました。私たちは神様の元から来て、神様の元へと帰っていきます。その間、私たちの旅路にはいろいろな出来事が起こります。生まれながらの境遇や時代に翻弄されることもあるし、思い通りにならないことの方が多いのかも知れません。しかし、私たちが気づくよりも先に、そもそも神がこの旅を生きるべき命を与えてくださったし、キリストがその旅で進むべき人間らしく生きる道を示してくださっています。主イエスが失われた息子の譬え話をしてくださいました。父を捨てて遺産だけをもらい、自己実現を夢見て好き勝手に生きた弟息子。放蕩の限りを尽くして財産を無駄遣いしてしまいます。彼の旅は、父親のもとを離れれば人間らしく生きられると思ったところに始まりました。自分の思うとおりに生きることが人間らしく自分らしいと思い込んで、実際には神様を捨てて生きました。もう一人の兄息子は父のもとにいましたが、不満のかたまりのような人物でした。やはり、弟と同じでこの父のもとにいては人間らしく生きられないと考えています。彼は弟のように実行に移せないで、代わりに弟や父親を心の中で徹底的に裁きます。キリストは父のもとから異郷のような私たちのところへ来られて、神様への従順を貫きました。私たちの前に謙り、十字架にまでかかりました。復活したキリストは、父のみもとへ帰還なさいました。主イエスは、いなくなった息子たちを自ら走って迎えに行く父なる神様のお姿を見せてくださいます。ここに私たちの帰る場所があるのです。改革者カルヴァンは、キリストの昇天が私たちに与える益について、このように言いました。「キリストは私たちのために地上に下ってこられたのと同じく、私たちの名において天に入りたまいましたので、そこで私たちのために入り口をお開きなりました。こうして、先には罪のゆえに閉ざされていた扉が、今や私たちに開かれたのです。」私たちが入るための天の扉は開かれています。さあ、この方の元へ帰りましょう。

2018年5月3日木曜日

詩編第119編1から8節「いかに幸いなことでしょう」

長大なこの詩編は主が下さった律法への愛を言葉に表す。「いかに幸いなことでしょう」と始まっている。詩編第1編と同じだ。主の律法は、本来は私たちに幸いをもたらす言葉。主の御言葉への愛を最初に確認したい。この詩編は、私が主の言葉に従うなら「あなたのどの戒めに対しても、恥じ入ることがないでしょう」と言う。世間や人と比べて恥じ入らないで済むというのではない。主がどうご覧になるかを自分の生きる基準にしているのだ。

2018年4月29日日曜日

マタイによる福音書第14章22から33節「疑わずに、信じよう」

おぼれたこと、ありますか?私はあります。おぼれたことがある人間にとって、水は恐ろしいものです。泳ぐのが得意な人はよく身体の力をぬけば自然と水に浮くというようなことを言いますが、私にはまずできません。怖いから力が入ってしまいます。そうすると苦しくてますます身体が硬くなります。悪循環です。恐怖のせいで自然にそなわっている浮力に信頼できないで、疑っているからです。頭で分かっていてもどうにもできないのが恐怖心なのかも知れません。ペトロは、逆風に悩む舟に水の上を歩いて近づいてきた主イエスを見て、主に願ってそちらの方へ水の上を歩いて行かせて頂きました。ところが強い風に気がついて怖くなり、沈みかけ、主に助けていただきます。主イエスは「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言う。ペトロは疑った。その疑いは、具体的には恐れです。恐怖心です。怖くて信じ切れなかったのです。水は、聖書の中ではしばしば滅びや混沌の象徴として登場しています。自分ではどうすることもできない圧倒的な力。死や病と言っても良いかもしれません。あるいは、この波風は舟を襲いました。舟は、これまたしばしば教会の象徴として登場します。教会を襲う混沌の力。教会が教会であることをやめさせようとする力。教会のこれからが話題になると、よく、若い人が教会に来ないことが問題だと言われます。確かに、私たちが主イエス様に与えられた宣教の使命を十分果たせていないことは大きな課題として謙虚に受けとめなければならないと思います。しかし、「若い人」がいないから将来がないというのは、ずいぶんとこの世の物の見方です。教会は、人間の能力や力が何をするかにまさって、神様がここで何をしておられるのかということによってこれまで生きてきたのではないでしょうか。もしも私たちが神様に期待することを止めてしまったとしたら、それは「教会ならでは」の力の秘密を放棄してしまうことになるのかも知れません。私は生来の恐がりで、世の中に怖いものがたくさんあります。未来だって怖い。しかし、恐怖は不信仰と地続きです。神が見えなくなるからです。神が見えなくなるというのは、私たちの信仰生活の中でキリストが非現実的な存在になるということです。私たちの実際の生活の中で、キリストはリアルなお方でしょうか?それよりも目の前の問題の方が余程リアルで大きくて、力強いのでしょうか?弟子たちは、舟に近寄ってくるイエスを見て「幽霊だ」と言いました。湖の真ん中、激しい逆風、沈みゆく太陽、そんな状況の中でキリストが被現時的だと思い込んでいたからです。実は今日の話は近現代になって聖書に批判的な人々のやり玉に挙がる箇所でした。そもそもイエスは湖上を歩いてなどいない。湖畔を歩いていたのに弟子たちが恐怖のあまりに水の上を歩いたと勘違いしたのだと言われます。そのようなことを言われても証明のしようは確かにありません。しかし、私は証明の必要すら感じない。なぜなら、こうやって逆風に悩まされる舟に近寄り、「安心しなさい。私だ。恐れることはない」と言ってくださっているというのは、わたし自身が日々経験していることだからです。私にとってキリストは常に現実的な方です。弟子たちと同じように恐れ、疑い、主に叱責されながらもひれ伏し、「本当に、この人は神の子だった」と告白する。それが信仰生活、教会生活そのものです。キリストは今日ここに来ておられます。

2018年4月25日水曜日

詩編第118編「主イエスのお姿を見つめて」

この詩編には新約聖書で、主イエスの歩みについて言い表すために引用されている言葉がある。22節や26節だ。この詩編自体が主イエスのお姿、その歩みを言い表していると受けとめられてきたのだろうし、それはその通りだ。ただ一つ、「主はわたしを厳しく懲らしめられたが、死に渡すことはなさらなかった」だけは違う。イエスは死に渡された。罪を犯さなかった方が、私たちの懲らしめを引き受けて。それほどに、主イエスの愛は深い。

2025年8月30日の聖句

主よ、あなたは私を回復させ、生かし続けてくださいました。(イザヤ38:16) 時に、プブリウスの父親が熱病と下痢で床に就いていたので、パウロはその人のところに行って祈り、手を置いて癒やした。(使徒28:8) 熱病や下痢を初めとして、あらゆる病に苦しむ仲間のために私たちは祈ります。...