2024年11月7日木曜日

2024年11月7日の聖句

私だ。義をもって語り、救う力の大いなる者。(イザヤ63:1)
私の気前よさを妬むのか。このように、後にいる者が先になる。(マタイ20:15~16)

今日の新約聖書の御言葉は、主イエスのなさった譬えの最後の部分です。ぶどう園の主人が、自分のぶどう園で働く労働者を雇いに行きました。夜明けに行って、一日1デナリオンの約束で労働者を雇った。その後、主人は9時、12時、3時、5時にも広場に行ってそこにいた人を雇いました。夕方になって一日の仕事が終わり、主人は5時から雇われた人から始めて、皆に一デナリオンずつ支払いました。最後に夜明けから働いていた労働者の番になった。彼は自分はもっともらえるだろうと思っていましたが、やはり一デナリオンでした。彼は怒りました。それに対して主人が言った言葉が、今日の御言葉です。「私の気前よさを妬むのか。」
この話は、誰の立場で読むかによってずいぶんと感想が異なる話です。明らかに、主イエスは、私たちが自分は夜明け組だと思い込んでいるだろう、とお考えです。だから、わざわざ夜明け組が最後、他の皆の給料を見ることのできる順番に配置したのでしょう。私たちに「理不尽だ」と思わせるために。
神さまの恵みは、理不尽です。私たちの基準からすると不公正です。働いた分だけ、労働に見合った恵みではない。神は私たちが考えているよりもずっと気前が良いからです。そして私たちは気付くのです。夜明け組だと思っていたわたしは、実は5時から組だったのだ、と。神の救う力の大きさを侮ることなく、私たちの枠組みに押し込めずに、神の気前よさを喜びましょう。この気前よさが、このわたしをも救ってくださったのですから。

2024年11月6日水曜日

2024年11月6日の聖句

幸いな者、あなたの家に住む人は。
彼らは絶えずあなたを賛美します。(詩編84:5)
私たちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せない呻きをもって執り成してくださるからです。(ローマ8:26)

聖霊なる神様は、神を信じる私たちをご自身の家としてくださって、私たちの内に住んでいてくださいます。この聖霊のお働きによって、私たちの内にも祈りが生まれる。「私たちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せない呻きをもって執り成してくださるからです。」言葉に表せない聖霊の呻き。聖霊は、私たちの内に住んで私たちと共に苦しみ、呻いてくださる。いやそれどころか、私たちに先立って神ご自身の霊が呻いていてくださる。
苦しいとき、悲しい時、私たちは祈りの言葉なんて出て来ないと思い込んでしまいます。しかしその私たちの呻きに先立つ神の呻きが私たちの内で始まっている。私たちは自分が苦しくて、呻きしか出て来ないと思っている。しかし実はその呻きは、私たちの内に住む聖霊の呻きに他ならないというのです。驚くべき言葉です。
「幸いな者、あなたの家に住む人は。彼らは絶えずあなたを賛美します。」ここでは「あなたの家に住む人」と言っています。主の神殿で耐えず神をほめたたえ、賛美する幸いを喜んでいる。ところが新約にいたって、聖霊ご自身が私たちの内に住んで、私たちを主の家としてくださるという逆転が語られていました。そうであればこそ、私たちはなおのこと神を賛美し、ほめたたえます。聖霊の私たちの内における賛美に声を合わせて。

2024年11月5日火曜日

2024年11月5日の聖句

私は彼らの肉体から石の心を取り除き、肉の心を与える。それは彼らが私の掟に従って歩み、私の法を守り行うためである。(エゼキエル11:19~20)
神の国はいつ来るのか。神の国はあなたがたの中にある。(ルカ17:20~21)

私たちの石のように固くなってしまった心を、神が取り除いてくださる。心の結石を神が取り去ってくださいます。心の中にそうやって石ができてしまうのは、私たちの抱いている意地とかプライドとか、自分を守ろうとする思いだったりとか、そのようなものが積み重なってのことなのではないかと思います。
しかしそれを神が取り除いてくださって、「肉の心を与える」とおっしゃいます。この場合の「肉」というのは、文脈からすると「柔らかい」というような意味でしょう。結石ではなく肉、つまり柔らかな体の一部であれば何の痛みも引き起こさないのです。神が私たちの心の結石を取り除いて肉の心を与えてくださる。
それは、私たちが神の掟に従って歩み、主の法を守り行うためであると主は言われます。私たちの心は主の掟と法を守り行うときにこそ柔らかい。主の掟と法は私たちの心をしなやかにする。私たちが掟に示された神の御心に従って生きる国、それは神の国です。主は言われます。「神の国はいつ来るのか。神の国はあなたがたの中にある。」
神の国は、キリストが王として支配する国のことです。だから私たちはキリストに従う。神ご自身が生み出してくださった柔らな心を持って。私たちは神の御前に生かされています。

2024年11月4日の聖句

もろもろの民よ、こぞって聞け。
地とそこに満ちるものよ、心して聞け。
主なる神はあなたがたの証人となられる。(ミカ1:2)
思い違いをしてはなりません。神は侮られるような方ではありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。(ガラテヤ6:7)

神が私たちの証人として、私たちの生き方やそこでしてきたことを覚えておられる。それは恐ろしいことです。神を侮ってはならない、と使徒パウロは言います。どうせ見ていないとか、神が見ていようが何だろうが関係ないとか、神は見ていても結局何もしないとか、私たちは様々な形で神を侮ります。しかし「人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。」
神が証人だと言っていますが、この「証人」という言葉には、見ている存在の感情や心を感じさせるところがあるのではないかと思います。私たちの生き方をご覧になって喜んでくださったり、悲しんでおられたりしながら、私たちのために心を尽くしておられる神さまのお姿。そういう神さまのお心を感じさせる言葉だと思います。だからこそ、「もろもろの民よ、こぞって聞け。地とそこに満ちるものよ、心して聞け」と言っているのではないでしょうか。神さまも本気で証人になられているのだから、私たちも本気で神に向き合わなければならない、と。
そのような神さまを決して侮ることなく、私たちに本気で目を注いでくださっている方の前で、私たちも誠実に生きていきたいと願います。このお方は私たちを見張る証人ではなく、憐れみと愛の御心を震わせながら私たちに目を注いでくださっているお方なのです。

2024年11月4日月曜日

2024年11月3日の聖句

今週の聖句:
王の王、主の主、唯一の不死の存在である方に、誉れと永遠の支配がありますように。(1テモテ6:15c,16a,c)

今日の聖句:
富が増えても、心を奪われるな。(詩編62:11)
善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように。(1テモテ6:18)

富の持つ力、私たちの心を奪い取る力は本当に大きいです。自分がその力にどんなに弱いかを思わされます。富は貪欲の入り口です。しかし困ったことに、富がなくては生きていかれません。私たちは物々交換の社会に生きているわけではないし、その日暮らしでは社会的な責任を果たすことさえままなりません。この社会の中でと見なしで生きることなんてできない。
しかしそれは、21世紀の日本だからではない。2000年前のユダヤにだって富はありました。ダビデの時代にだってありました。アブラハムにとっては羊の群れが富だったでしょう。アブラハムの甥であるロトの心を奪ったのは、ソドムやゴモラという町のきらびやかさ、つまり富でした。いつの時代でも富の持つ力は強いのです。
その誘惑への処方箋を、使徒パウロはこのように伝えています。「善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように。」分け与えること。これが富の正しい使い方だ、と言うのです。自分のものとしてため込むのではなく、分け与える。そこに私たちの自由の道がある。思えば、主イエス・キリストこそ、私たちのために天の富をすべて分け与えてくださったお方です。分け合い、与える。キリストがしてくださった愛の満ちに、私たちの自由がある。御言葉はそう告げています。

2024年11月2日の聖句

主は正しい人の行いと忠実さに応じて、それぞれに報いてくださいます。(サムエル上26:23)
(パウロの手紙)主が来られるまでは、何事についても先走って裁いてはなりません。主は、闇に隠された事を明るみに出し、人の心の謀をも明らかにされます。その時には、神からそれぞれ誉れを受けるでしょう。(1コリント4:5)

私たちの行いも心の思いも、主なる神さまの前で問われ、明らかにされ、裁かれます。世も私たちを問い、何事かを暴き、裁きにかけることもあるでしょう。しかし私たちは人の裁きを恐れるよりもなおのこと神を畏れ、神の御前にいることをこそ重大なことと考えます。
「主が来られるまでは、何事についても先走って裁いてはなりません。主は、闇に隠された事を明るみに出し、人の心の謀をも明らかにされます。その時には、神からそれぞれ誉れを受けるでしょう。」
パウロはこの主の裁きは「主が来られるとき」のことだと言います。主イエス・キリストが再び来てくださるとき。使徒信条も、主が再び来られて生きている者と死んでいるものと裁かれると告白しています。私たちは終わりの時、救いの完成の時の裁きを待ち望んでいる。
そう、私たちは終わりの時を待ち望んでいます。裁きを待ち望むというのはおかしな言葉のようにも思えます。私たちが神の御前に裁かれるとき、罪状を読み上げ出すときりがありません。わたしたちは神に対して一万タラントンの借りがあってしかも債務不履行です。裁きには耐えられない。しかし、私たちのすべての借財も罪の重荷も、キリストが引き受けてくださいました。だから、裁きの時は救いの時です。私たちのためのすべての罪状が破棄されるときです。私たちはキリストを待ち望み、キリストの救いを待ち望み、キリストにあって救われる約束の時として、神の御前に立つ日を待ち望んでいる。それがキリスト者の将来へのまなざしです。

2024年11月1日金曜日

2024年11月1日の聖句

11月の聖句:
私たちは、神の約束に従って、義の宿る新しい天と新しい地とを待ち望んでいます。(2ペトロ3:13)

今日の聖句:
私は、背いた彼らを癒やし、喜んで愛する。(ホセア14:5)
私たちを試みに遭わせず、悪からお救いください。(マタイ6:13)

主なる神さまは、背いた私たちを愛してくださるお方。しかも、喜んで愛してくださるお方です。こんなにも慈しみに満ち、こんなにも憐れみ深い方がほかにいるでしょうか?
今日の御言葉はホセア書から取られています。ホセア書は、預言者ホセアが神に命じられてゴメルという女性を妻として迎えるところから話が始まっています。ゴメルは淫行の女と呼ばれていました。数々の男たちと淫行を繰り返している。ホセアは彼女を迎え入れますが、その後も彼女の生き方は変わりませんでした。ホセアの悲しみや怒りやいろいろな思いは想像するに余りあります。そういう一人の人間の姿を通して、神を蔑ろにし、裏切り、他のものを神とする私たち人間の罪をあぶり出します。私たちは神さまを裏切って淫行しているに等しい。
しかし、そういう私たちの不誠実を暴いてきた預言者ホセアの口を通して神は言ってくださいます。「私は、背いた彼らを癒やし、喜んで愛する。」神が私たちを受け入れ、愛し、赦してくださった。神さまは私たちを癒してくださる、とも言っています。私たちは癒やしにならないものに癒やしを求めてフラフラしてしまいますが、まことの癒やしは神の御もとにある。このお方は喜んで私たちを癒やしてくださるお方です。ですから私たちはこの神に「お救いください」と祈り、信仰の道を今日も上っていくのです。

2025年8月30日の聖句

主よ、あなたは私を回復させ、生かし続けてくださいました。(イザヤ38:16) 時に、プブリウスの父親が熱病と下痢で床に就いていたので、パウロはその人のところに行って祈り、手を置いて癒やした。(使徒28:8) 熱病や下痢を初めとして、あらゆる病に苦しむ仲間のために私たちは祈ります。...