2025年8月8日金曜日

2025年8月8日の聖句

私は言った。
「舌で罪を犯さないように、私の道を守ろう」。(詩編39:2)
同じ口から、賛美と呪いが出て来るのです。私のきょうだいたち、このようなことがあってはなりません。(ヤコブ3:10)

なんと痛い言葉なのでしょうか。舌の犯す罪。同じ口から、賛美と呪いが出て来る。何度この罪を犯してきたことか。目を上げることのできない現実に取り囲まれています。まさに、舌は疲れを知らない悪です。
今日の詩編は、舌で罪を犯さぬために「私の道を守ろう」と言っています。どうやって自分の道を守るのか。さらに続けて読むと、「悪しき者が私の前にいるうちは、口にくつわをはめておこう」と言います。目の前にいる悪しき者についカッとして、あるいはつられて、口から罪深い言葉が出て来る。しかしそれは悪しき者の責任ではない。自分の心の中にもともとあったものです。自分の中にあるから、何かのきっかけで飛び出してくるのです。この罪から逃れるための道は、自分の口にくつわをはめてしゃべらないこと。黙り込み、口を閉ざすしかない。そのように言います。
ところがこの詩編が本当に人の心をよく知っていると思うのは、さらにその続きがあるところです。そうやって口を閉ざして、良いことも悪いことも何も話さないようにしたら、それは自分にとって苦痛であった、と言うのです。「私のうちで心が熱くたぎった。私の呻きで火は燃え上がり、私の舌で私は語った。」もう何も口にするまい、舌の罪を遠ざけようと思って口を閉ざしても、それには限界があった。不可能だった。そう言います。
そうなのです。私たちにはどうすることもできない、疲れを知らない悪。私たちの存在の根源に根ざしている罪です。だからこそ、私たちにはキリストに助けを求めるより他ないのです。
私たちの思いと言葉、行いと怠惰による罪を赦し、私たちを解放することがおできになる方に、憐れみを求めます。

2025年8月7日木曜日

2025年8月7日の聖句

あなたがたは多くの収穫を期待したが
それは僅かであった。
あなたがた家へ持ち帰ると
私はそれを吹き飛ばした。
それはなぜなのかーー主の仰せ。
それは、私の神殿が廃墟のままであるのに
あなたがたが、それぞれ自分の家のために走り回っているからだ。(ハガイ書1:9)
あなたがたファリサイ派の人々に災いあれ。あなたがたは、ミント、コヘンルーダ、あらゆる野菜の十分の一は献げるが、公正と神への愛をおろそかにしている。これこそ行うべきことである。もっとも、十分の一の献げ物のもなおざりにはできないが。(ルカ11:42)

ハガイ書はバビロン捕囚から解放された後の時代の預言書です。エルサレムは70年ほど前の戦争で破壊され、信仰の中心である神殿も破壊されたままになっていました。捕囚から解放された帰還民が取り組んだ仕事がエルサレムの外壁の再建、そして神殿の再建でした。預言者ハガイが活動した時代はまだその最初期で、神殿再建もままならなかったようです。遠い捕囚地から帰還した人々はまだ自分たちの住まいや生活に精一杯で、神殿をどうすることもできないままでいた。そのようなときに「私の神殿が廃墟のままであるのに、あなたがたが、それぞれ自分の家のために走り回っている」と指摘された、ということになります。
これを読んで、考えさせられます。自分がどんなに言い訳の名人であるかを。まだ自分の生活もままならないから。まだ状況が好転していないから。まだ○○だから・・・と、永遠にできない理由を並べることができます。しかしそれは違うのではないか、と主は問いかけておられます。
今日の新約は、私たちのささげ物が形ばかりを整えるものに過ぎず、生き方が自分勝手なものであることに目を向けようともしない、と主イエスが指摘しておられます。公正と神への愛をおろそかにしておいて、神に心からのささげ物をすることなどできないはずだ、と言われるのです。ここでもやはり、言い訳の問題なのだと思います。献金しているから、ということを言い訳にして、自分の生き方が変えられることを拒んでしまう。とても偽善的ですが、それを許容できてしまう私たちのあり方を主は問うておられます。
私たちはどのように主に従い、主を信じて生きていくのでしょうか。真実な信仰に生きるために、聖霊の助けを真心から求めたい、と願います。

2025年8月6日水曜日

2025年8月6日の聖句

主に向かって私は歌おう。なんと偉大で、高くあられる方。(出15:1)
私は霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊でほめ歌を歌い、理性でもほめ歌を歌いましょう。(1コリント14:15)

神さまは憐れみ深いお方です。私たちの憐れみに満ちた父でいてくださいます。このお方は、私たちが献げるほめ歌、賛美の歌を喜んで聞いてくださいます。主が私たちに傾けてくださる耳の恵みのなんと深いことでしょう。私たちのほめ歌に耳を傾けてくださるのですから。
「主に向かって私は歌おう。なんと偉大で、高くあられる方。」賛美の心は、驚きの心です。「なんと偉大で、高くあられる方。」私たちを見いだし、思いを寄せてくださり、愛し、救ってくださる神さまの偉大さ。このお方はただ高いところにおられるだけではなく、低きに下って私たちと共に歩んでくださり、私たちを救ってくださるお方です。この神の偉大な御業のために、私は今日も生かされている。
今日の新約では、霊と理性という言葉が出てきます。理性の方がすぐに意味が分かります。霊というのはどういうことでしょうか。コリントの信徒への手紙の前後を読んでみると、ここでは「異言」の話をしています。異言というのは、理性によっては理解することのできない特別な祈りの言葉です。誰にでも口にすることができるわけではない、また、誰にでも解釈することができるわけではない。パウロは、この手紙で、「異言はその言葉の特性のゆえに他人を造り上げるわけではない。自分を造り上げる言葉だ」、という趣旨のことを言います。だから、他人にも分かる「預言」の言葉を語る方が良い、と言っています。今日の箇所の「霊で祈る」というのは異言の祈りのことであろうと思います。それに対して、「理性で祈る」というのは、誰が聞いても意味の分かる、他人を立て上げるような祈りの言葉、ということであると思います。
つまり、霊で祈り理性で祈るというのは、人間の心のありとあらゆる次元で祈る、ということであろうと思います。感情の発露や理性の深まり、霊の衝動や情動の動き。そういったすべてをもって神を賛美する。私のすべてをもって賛美するべき、偉大な神。私のすべてを献げる高きにいます神。このお方をほめたたえる。ここに私たちの賛美があるのです。

2025年8月5日の聖句

主はモーセに言われた。「私が命じるすべてのことをあなたが告げなさい。」(出7:1,2)
御言葉を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを続けなさい。忍耐と教えを尽くして、とがめ、戒め、勧めなさい。(2テモテ4:2)

福音は、私たちが宣べ伝えることによってこの世界に伝えられます。主は私たちキリスト者の口に福音の言葉を預けてくださいました。神さまの御言葉を私たちがこの口に上らせて、今ここでキリストの福音の使者になることを主なる神さまは望んでおられます。
「御言葉を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを続けなさい。忍耐と教えを尽くして、とがめ、戒め、勧めなさい。」
時が良くても悪くても、と書いてあります。今は良い時なのでしょうか、それとも悪い時なのでしょうか。福音伝道に日本中の教会が苦慮しています。そういうことを考えると、あまり良い時とは言えないのかもしれません。神を求め、永遠にあこがれるよりも、刹那的な欲求の充足や気分をすっきりさせる怪しげな言説の方がよほど力を持っているように思えます。しかし私たちは、神に命じられて、時が良くても悪くても、御言葉を宣べ伝えます。誰もが、どんなときにも、キリストの福音を必要としていると信じているからです。
そのためには忍耐が必要です。諦めずに語り続け、成果が見えなくても福音を宣言し続ける。それは忍耐深いあり方です。キリストがこの道に私たちキリスト教会を招いておられると信じ、私たちは福音の証し人として、歩んでいきます。

2025年8月3日日曜日

2025年8月3日の聖句

今週の聖句:
あなたがたはもはや外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する神の家族です。(エフェソ2:19)

今日の聖句:
(主の言葉)私はあなたに悟りを与え、歩むべき道を示そう。(詩編32:8)
(イエスの言葉)私に従いなさい。(ヨハネ21:22)

主イエスは「私に従いなさい」と、私たちにお命じになります。この「従う」というのは、文字通りには「後について行く」という意味です。主イエスが歩んで行かれるところに、主の足跡に自分の足を重ねるようにしてついていく。それが、主イエスの弟子として主に従うということの原型であるのだと思います。
主イエスは今日、どこに進んでおられ、何をなさっているのでしょうか。主は誰と出会い、誰の傍らにおられ、どのような愛の業を進めておられるのでしょうか。私たちは主イエスの言葉に導かれ、主に促されて、主イエス・キリストの後についていきます。主が進んで行かれるところへと共に行き、主がしておられることのために共に仕えます。
今日の詩編に「私はあなたに悟りを与え、歩むべき道を示そう」と書いてあります。主なる神さまが私たちに悟りを与えてくださる。主に従い、主の道を行くために必要な悟りです。主を愛し、主のものとして生きるために必要な知恵です。この知恵は「主を畏れることは知恵の始め」という意味での知恵です。主を畏れ、主に従い、主イエス・キリストの愛に従って生き、私たちは神を礼拝するのです。
今日も主イエス・キリストの恵みと祝福がありますように。

2025年8月2日土曜日

2025年8月2日の聖句

兄弟に対して、心の中に悪意を抱いてはならない。(ゼカリヤ7:10)
皆思いを一つにし、同情し合い、きょうだいを愛し、憐れみ深く、謙虚でありなさい。(1ペトロ3:8)

「兄弟・きょうだい」というのは、共に神を信じる仲間たちのことです。ですから今日の聖書の御言葉は、教会の人間関係の話をしていることになります。
まず、「皆思いを一つに」するように、と言っています。スポーツのチームであれば、大会での優勝とか技術力の向上とか、何らかの共通の目標や思いがあるでしょう。チーム一丸になって同じ目標を共有していると、個々人でいるときにはないチームならではの力を発揮することができるようになります。私たちキリスト教会の場合は、どういう思いを共有するのでしょうか。それは言うまでもなく、主イエス・キリストの示してくださった神の愛であり、このお方を信じる信仰、そしてキリストが与えてくださった希望であるのではないでしょうか。キリストにあって、私たちは思いをひとつにする。
同情、兄弟愛、憐れみという言葉もあります。どれも、悲しんでいたり痛んでいたりする隣人への想像力に満ちた愛の心です。人が痛んでいるのを自分の痛みとして痛み、悲しみに思いをいたす。主イエス・キリストは私たちと同じ一人の人間としてお生まれになりました。このお方こそ、究極の憐れみのお方です。
そして、聖書は私たちに「謙虚」を求めています。私たちが神の前に、そして兄弟姉妹の前に謙ること。神の前に一体自分は何者なのか?隣人に対してどれほどの者なのか?何も誇ることのできない自分であることを認め、謙る。
このように見ていきますと、教会は、キリスト抜きの人間関係はあり得ないのだということに改めて気付きます。主イエスさまが私たちの間にいてくださり、共にキリストを仰ぎ、福音の言葉に聞き、このお方を賛美し礼拝する。聖霊なる神様が私たちの間を満たしてくださって、私たちを神のものとしてくださいます。

2025年8月1日金曜日

2025年8月1日の聖句

8月の聖句:
私は今日まで神の助けをいただいて、しっかりと立ち、神を証ししました。(使徒26:22)

今日の聖句:
主である私たちの神よ、私たちが希望を抱くのはあなたではありませんか。(エレミヤ14:22)
神は私たちに永遠の命を与えてくださり、その命を私たちは御子を通して得ます。(1ヨハネ5:11)

私たちが希望を抱いて待ち望むのは、主なる神さまです。このお方こそが世界を造り、雨を降らせるお方です。私たちは晴れの日も雨の日も備えてくださる神の慈しみによって生かされています。
しかし、雨と言っても最近はゲリラ豪雨のようなすさまじい雨もありますし、最近は晴れと言ってもあまりにも灼熱の毎日で、あまりありがたく感じないのが正直なところです。現代を生きる私たちには、あまり天気によって神さまの恵みを感じにくくなっているところがあるのかもしれません。
現代の天候の厳しさは、やはり私たち人間の様々な活動によって損なわれた結果と言わなければならないでしょう。人間の罪の結果であることは、紛れもない事実です。
そういう中でも私たちが神の慈しみを信じるのはなぜでしょうか。その答は今日の新約の御言葉にあります。「神は私たちに永遠の命を与えてくださり、その命を私たちは御子を通して得ます。」神の御子イエス・キリスト。このお方こそ、私たちが神の慈しみを信じることのできる根拠です。私たちはキリストを通して神と出会います。キリストを通してこの世界を見つめます。そこに神の慈しみがあることを、キリストによって示された神の愛のゆえに信じることができるのです。
そうであるからこそ、私たちはすべての命が共に生きる場所、皆が共に生きる家であるこの世界を守るための責任を果たさなければならないのではないでしょうか。神の御前に、共に歩んでいきましょう。

2025年8月30日の聖句

主よ、あなたは私を回復させ、生かし続けてくださいました。(イザヤ38:16) 時に、プブリウスの父親が熱病と下痢で床に就いていたので、パウロはその人のところに行って祈り、手を置いて癒やした。(使徒28:8) 熱病や下痢を初めとして、あらゆる病に苦しむ仲間のために私たちは祈ります。...