2025年8月15日金曜日

2025年8月15日の聖句

命のあるかぎり、あなたをたたえ
その名によって、手を高く上げよう。(詩編63:5)
民衆は皆、彼(癒やされた人)が歩き回り、神を賛美しているのを見た。(使徒3:9)

生まれつき足の不自由な人がペトロとヨハネに出会い、主イエス・キリストの御名によって歩けるようにされました。この人は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がってたち、歩き出した。その様子を、周囲にいた民衆が見ていた、と聖書は伝えています。「民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。」キリストとの出会いが私たちに起こす素晴らしい出来事は、私たち自身に留まらず、周囲にいる人々の見るところとなり、それは証しの力をもって広まっていきます。
神さまを賛美しましょう。私たちに出会ってくださった神さまのすばらしさを、主イエス・キリストの愛の深さをほめ歌いましょう。「命のあるかぎり、あなたをたたえ、その名によって、手を高く上げよう。」キリストを賛美する私たちの姿を、神さまが用いてくださって、福音の証人にしてくださいます。
私たち自身も、そうやってキリストとの出会いのすばらしさを証言してくれたたくさんの人たちの言葉や姿を通してキリストを知ったのではないでしょうか。私たちも、キリストを愛する人たちの賛美の歌によってキリストを知らされたのではないでしょうか。私たちも同じ声になることができる。私たちも同じように、キリストの証人にされる。今日、御言葉はそのように語りかけています。

2025年8月14日木曜日

2025年8月14日の聖句

主は言われた。「あなたの言葉の通り、私は赦そう。」(民数記14:20)
また、立って祈るとき、誰かに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。(マルコ11:25)

主イエス・キリストは、私たちが誰かを恨んでいるとき、その人を赦すことを求めておられます。主の祈りでも、「私たちの罪を赦してください、私たちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」と祈るように、とおっしゃいました。
主イエスは、私たちが当然のように自分が赦されることだけを求めるのではなく、「誰かに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい」とお命じになります。私たちにとってはたいへんチャレンジングなご命令です。
ところで、日本のキリスト教界では、多くの場合、罪のゆるしという意味での「ゆるす」を「許す」ではなく「赦す」という字で表記しています。「許す」が「許可」の字であることから避けたのだろう、と思います。神さまが私たちの罪を赦してくださったというのは、私たちが罪を犯すことを許可したり、罪をしてもいいことにする、という意味ではありません。罪の結果を神ご自身が引き受け、御子イエスに負わせた上で私たちを受け入れてくださった、という意味です。
神のしてくださった罪の赦しの有り難さ(文字通り、「有り難い」ことです。)を、骨身にしみて味わいましょう。「あなたの言葉の通り、私は赦そう」と神は言ってくださいます。この果てしない赦しの恵みに打ちのめされたとき、私たちも自分の赦せないという思いに固執するのではなく、神が負ってくださった罪の痛みを僅かでも負う者にして頂けるのではないでしょうか。

2025年8月13日水曜日

2025年8月13日の聖句

主はまことの大盾、小盾。(詩編91:4)
しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神にあってなされたことが、明らかにされるためである。(ヨハネ3:21)

今日の御言葉を読んで、キング牧師の祈りの言葉を思い出しました。このような祈りです。

主よ、私はここで正しいことをしようとしています。
わたしはここで正しいと信じることのために立ち上がっているのです。
しかし主よ、私は告白しなければなりません。
私は弱いのです。私は倒れそうです。勇気を失いそうです。そして恐れています。
だが私は人々にこんな私を見せたくありません。
なぜならもし彼らが私の弱い、勇気を失っている姿を見るなら、
彼らも弱くなってしまいます。
人々は私に指導力を期待しています。
だからもし私が力と勇気を失ったままで彼らの前に立つなら、
彼らも倒れてしまいます。
私はもう力の限界に来ています。もう何も残っていません。
もう一人で立ち向かうことはできません。(梶原寿訳)

キング牧師の非暴力の戦いの中、どれほどの苦悩と恐怖を覚えての祈りだったのでしょう。伝えられるところによると、この祈りを捧げた三日後に自宅に爆弾が投げ込まれたそうです。しかし、もはや彼は恐れなかった。真理そのものであるキリストが盾となって守ってくださることを信じたのではないでしょうか。
今、恐れてはいないでしょうか。勇気を失ってはいないでしょうか。主を信じましょう。そして、大胆に生きましょう。キリストがあなたと共にいてくださいます。

2025年8月12日火曜日

2025年8月12日の聖句

主は生きておられる。
わが岩をたたえよ。(詩編18:47)
イエスは言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する』」。(ルカ24:46)

「主は生きておられる」は、使徒たちが宣べ伝えた最初の福音の言葉でした。「主は生きておられる!」十字架に掛けられて死に、葬られた主イエス。この方を神は死者の中から甦らせられた。主は生きておられる。イエス・キリストは生きておられる。この事実を神のくださった良き知らせとして口から口へと伝えられ、福音が広まっていったのです。
それは、「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する」という聖書の御言葉の成就であり、キリストご自身のおっしゃっていた御言葉の成就でした。聖書が伝えてきたとおり、神が私たちのもとに遣わしてくださったメシア、まことの王である方は苦しみを受け、死者の中から復活した。神の国がここに始まっている。神の国を私たちにもたらしてくださったまことの王は、イエスをおいて他にはいない。主イエスの十字架と復活の出来事は、その事実のしるしなのです。
主イエスさまの十字架と復活。これこそ私たちを救う神の力です。「永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを、使者の中から引き上げられた平和の神が、御旨に適うことをイエス・キリストによって私たちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が代々限りなくキリストにありますように、アーメン。」今日も、キリストの恵みと平和はあなたにあります。そのことを信じて、新しい一日の歩みに出て行きましょう。

2025年8月11日月曜日

2025年8月11日の聖句

主の名を呼び求める者は皆、救われる。(ヨエル3:5)
イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。私の名を名乗る者が大勢現れ、『私がそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、付いて行ってはならない。」(ルカ21:8)

主イエスさまのお名前を語る者たち、偽教師とか偽預言者ともいうべき者が必ず現れることになる、と主イエスさま御自身が指摘しておられます。神の名を自分勝手に騙る者、救い主を自称する者。いつの時代にも、そういう人は大勢出てきます。私たちの時代にも、いろいろな「異端」と呼ばれるような教えはたくさんあります。どうしてそういうまがい物が後から後から湧いて出てくるのかと考えれば、それはやはり、人々が不安だからだと思います。人々の不安につけ込んで、偽物が幅をきかせている。それは本当に罪深いことだと思います。
「主の名を呼び求める者は皆、救われる」と聖書は言います。主なる神さまは、私たちを愛し、救ってくださるお方です。私たちをご自分の民とするために、私たちにご自分の御名を知らせてくださいました。私たちがこのお方を「主イエス・キリストの父なる神様」とお呼びするのは、神さまがまず私たちをご自分の子としてくださり、愛してくださったからです。
まことの神さまは、私たちには計り知れないほどの愛に満ちたお方です。人々の不安をあおり、私たちを脅すようなお方ではありません。私たちはキリストのお名前を呼び求めます。私たちは慈しみに満ちた神さまの御名を賛美します。ここに救いがある。私たちが考えるよりも遙かに深い恵みに満ちた御心で私たちを包み込んでくださる。このお方の御名を呼び求めましょう。キリストの愛の中で今日も歩んでいきましょう。

2025年8月10日日曜日

2025年8月10日の聖句

今週の聖句:
光の子として歩みなさい。光の結ぶ実は、あらゆる善と義と真理との内にあるからです。(エフェソ5:8b,9)

今日の聖句:
主があなたを祝福し、あなたを守られるように。(民数記6:24)
私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。(マタイ28:20)

学生の時に初めて一人で海外旅行をしました。アメリカに行きました。テネシー州にあるカンバーランドの信徒の方のお宅にホームステイし、いくつかの姉妹教会に伺いました。何人もの牧師と会いましたが、別れ際に皆さん、力強く握手をして"God bless you!"と言ってくださいました。
「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。」
主なる神さまの祝福を願い、そのことを神に祈り、神の守りを求める言葉です。日本語でそのままこれを挨拶にすると少し気取ったような感じになってしまうかもしれませんが、私たちも心は同じです。お互いのための神の祝福を祈り合います。
主イエスさまは私たちを祝福し、私たちに御顔を向けてくださっています。そして、どのようなときにも、必ず、私たちと共にいてくださいます。「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」この大いなる祝福の手の中で、私たちは今日も生きていきます。キリストが共にいてくださいます。主がいつもあなたを祝福してくださっています。
今日もキリストの平和のうちに歩みましょう。主イエス・キリストの恵みと祝福が今日もあなたにありますように。

2025年8月9日土曜日

2025年8月9日の聖句

あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、あなた方の心を主に向けなさい。(ヨシュア24:23)
あなたがたの役に立つことは一つ残らず、伝え、また教えてきました。神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきたのです。(使徒20:20,21)

「あなたがたの中にある異国の神々」と言われています。異国の神々が「あなたがたの中」にある。それだけ深く私たちの生活習慣や因習の中に根を下ろしている、ということではないでしょうか。考えてみると、日本語でも「これは宗教ではなく習慣だ」という言い方があります。私たちの生活に深く関わる因習のようなものが、実は「異国の神々」の現れであるということもあるのではないでしょうか。
同じことを、少し視点を変えて考えてみます。「異国の神々」が生活習慣に深く根を下ろしているということは、逆に言えば、主なる神さまの方はよそ者だ、と考えられているということだと思います。私たちもよく耳にします、「キリスト教は西洋の宗教だ」「日本人の宗教ではない」、と。それではヨーロッパに行けばキリスト教という土着の宗教があるということなのでしょうか。確かにヨーロッパ世界には2000年近くの伝統があります。しかし、もとはイスラエル(つまり西アジア)の人々の信仰です。ところがもっと遡って考えれば、何も「イスラエル人が発明した宗教」ではない。神は遠くから来られて、アブラハムと出会い、その子どもたちと出会い、彼らの神になってくださった。そのお方が独り子イエスを与えてくださった。つまり、「キリスト教」という誰かにとっての所与の宗教があって、それが伝来して私たちが帰依している、ということではないのです。私たちの誰にとっても他者であるお方、このお方の前では誰もがよそ者であるお方。この神が私たちを訪れ、出会い、私たちをご自分の民としてくださったのです。
キリストとの出会いは私たちを新しくします。私たちの主人は、私たちの間にある「まことの神ならぬもの」からイエス・キリストに替わります。私たちと出会ってくださった主なる神に、私たちの主人が替わるのです。私たちの主イエスに対する信仰。それは神が私たちに与えてくださるものです。

2025年8月30日の聖句

主よ、あなたは私を回復させ、生かし続けてくださいました。(イザヤ38:16) 時に、プブリウスの父親が熱病と下痢で床に就いていたので、パウロはその人のところに行って祈り、手を置いて癒やした。(使徒28:8) 熱病や下痢を初めとして、あらゆる病に苦しむ仲間のために私たちは祈ります。...