2021年11月30日火曜日

2021年11月30日の聖句

私の時は御手の内にあります。(詩編31:16)
あなたがたのうちの誰が、思い煩ったからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。(ルカ12:25)

科学技術のめざましい発展のお陰で人間にはいろいろなことができるようになりました。何年か前のオリンピックで、開会式の日を晴れにするために「人工消雨」というプロジェクトがあるというニュースが流れていた記憶があります。天気の予報どころかコントロールまでしようとする。「すごい」とも言えそうですが、考えてみればずいぶん恐ろしいことです。天気を人間の手におさめるなんて!しかし私たちがあまりにも慣れてしまって、本当は恐ろしいはずなのに恐ろしさを忘れているようなことはいろいろあるのかも知れません。どうでしょうか。
聖書は、そういう意味での恐ろしさのような感覚を大事にしていると私は思います。人間には人間として手出しできないし、してはいけない領域がある。
「私の時は御手の内にあります」と、旧約の時代を生きた信仰者が言いました。「私の時」と言ったとき、その「時」は単なる24時間とか10分間とか、そういう「時間」のことだけではないと思います。もちろんこの時間を昨日に戻すようなことはできませんが、ここで言っているのはもっと別のことだと思います。他ならぬ「私の時」です。この私が、神さまの前にあって生きる「時」。今、この時。他にはない類い希なる神の御前にあるこの時。そういう聖なる時として今を知るという知恵です。
私たちには困ったことが起こるし、しかもそれがどうして今なのか、神さまの見解を問いただしたくなるようなことも起こります。しかし私たちには、私たちの時をコントロールすることができません。私たちには生まれるときもコントロールできないし、死ぬときもコントロールできません。肝心な「時」は私の手の中にはない。それは神さまの御手の内にあります。私たちは神さまを畏れつつ、ひれ伏すしかありません。
私の時は私の手の中にはない。自分ではどうすることもできない。それは恐ろしいことです。しかし、どうしようもないと諦めなければならないことではありません。「あなたがたのうちの誰が、思い煩ったからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。」主イエスがそうおっしゃったとき、私たちの命を御手に収め、しかも慈しみを持って私たちを養ってくださる神さまの恵に私たちの目を向けさせてくださいます。「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」とキリストは言われます。私の時は私の手の中にはない。しかし私は恐れない。私の時は、慈しみ深い神の手の中にあるから。

2021年11月29日月曜日

2021年11月29日の聖句

あなたがたの神、主の声に聞き従うなら、あなたは入るときも祝福され、出るときも祝福される。(申命記28:1,6)
イエスは言われる「誰でも天の私の父の御心を行う人は、私には兄弟姉妹であり、母である」。(マタイ12:50)

「あなたがたの神、主の声に聞き従うなら」と言います。「誰でも私の天の父の御心を行う人は」とも言っています。神さまのみ声に聞き従い、神さまの御心を行う。その人には祝福がある。その祝福は、主イエスが「私の弟、私の妹、私の母」と呼んでくださる祝福です。
主イエスが教えてくださった祈りに、「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」という言葉があります。天で神さまの御心が行われるように、地でも神さまの御心が行われますように。私たちがこう祈るとき、私たちはまず祈っている私自身が神さまの御心に従って生きることができますように、と祈っていることになります。神さま、今日の私があなたの御心に従って生きられますように、あなたに喜んで頂ける者として生きられますように。キリストの弟として、キリストの妹として、私を生かしてください。主イエスの母として生きたマリアの祝福に、私もあずからせてください。私たちはそう祈ります。
私たちの毎日は、神さまの御心に従うという決断の連続です。一日に何度もあるはずです。今、ここで、神さまの御心に従って生きるとはどういうことだろう。私たちは問われる。そして、私たちにそれが明らかであることもしばしばあります。私が今生きるべき愛の道がここにある。キリストの真実に従う道がここにある。私たちにもそれが明らかになることが起こります。そのとき、私たちは、キリストに従う愛の道に生きるように、キリスト御自身に招かれているのではないでしょうか。
神の御心に従う者には、入るときにも祝福があり、出るときにも祝福がある。御言葉はそう言います。今日、私たちが出かけて行くときにも、神の祝福があります。一日の勤めを終えて家に帰り着くときにも、神さまは新し祝福を準備して待っていてくださいます。行っておいで、私の弟、私の妹よ。お帰り、私の弟、私の妹よ。主がそう言ってくださる。そして、母マリアを愛するように、私たちへの格別な愛を持って迎えてくださいます。

2021年11月28日日曜日

2021年11月28日の聖句

あなたの慈しみが私の慰めとなりますように、あなたが僕(しもべ)に約束されたように。(詩編119:76)
エルサレムにシメオンという名の人がいた。この人は正しく、神を畏れ、イスラエルの慰めを待ち望んでいた。また、聖霊が彼の上にあった。(ルカ2:25)

今日からアドベントになりました。日本語にすると「待降節」。その名の通り、クリスマスに降誕した主イエス・キリストを待ち望む季節です。アドベントにはさがみ野教会でも、多くの教会がしているようにアドベント・クランツを礼拝堂に飾っています。一本ずつロウソクに火を灯して、クリスマスの時が来るのを待ち望むのです。
今日の御言葉はアドベントの始まりにふさわしい御言葉です。シメオンという人は、メシアが現れるのを待ち望んでいた人でした。そのことを聖書は「イスラエルの慰めを待ち望んでいた」と書いています。メシア、救い主との出会い、それこそが私たちの慰め。シメオンは神が私たちを慰めてくださることを待ち望み、その時を目指して生きていたのです。私たちは、何を待ち望み、何を目指して生きているでしょうか。実は、私たちもシメオンと同じです。まことの慰め、主イエス・キリストをお迎えするために、私たちは生きているのです。
多くの人は、恐らくシメオンを老人だとイメージします。というのも彼がまだ生まれて間もない主イエスと出会ったとき、遂に自分がメシアと出会ったことを知り、このように祈ったからです。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。」この「去らせてくださいます」という言葉は明らかに「死ねる」ということでしょう。私は安らかに死ねる。なぜなら「私はこの目であなたの救いを見たから」とシメオンは言います。
確かに若ければなかなか出て来ない祈りです。しかし、年齢には関係なく、キリストと出会うというのは安らかに死ねる準備ができたということです。「あなたの慈しみが私の慰めとなりますように。」神の慈しみを知り、それによって慰められているからです。
アドベントは、クリスマスにお生まれになった主イエスをお迎えする準備の期間です。ただし、もう一つの意味があります。アドベントはやがてもう一度来てくださるキリストをお迎えする準備の時でもある。私たちも、今日、主イエスをお迎えする準備をします。私たちのための神の慈しみであり、私たちの慰めであるキリスト。私たちが安らかに去ることができるように、キリストは私たちのところへ来てくださっています。

2021年11月27日の御言葉

奇しき恵を示してください。あなたの右の手に抗して立ち向かってくる者から逃れを求めている者たちの救い主よ。(詩編17:7)
平和の神があなたがたを完全に聖なる者にしてくださり、私たちの主イエス・キリストが来られるときまで、あなたがたの霊と魂と体を非の打ち所なく保ってくださるように。(1テサロニケ5:23)

この新約聖書の御言葉は、使徒パウロの祈りの言葉です。この手紙を読んでいるテサロニケ教会の人たち、そして私たちのためにも、パウロが一人の使徒、あるいは牧師として祈ってくれています。「平和の神があなたがたを完全に聖なる者にしてくださ」るように、と。
聖なる者と言っています。そう言われると、品行方正で信仰深い人というようなイメージがわくかも知れません。しかし、そういうことではないと思います。聖なる者、それは「神のもの」ということです。平和の神が、私たちを完全に聖なる者としてくださるように。それは、神が私たちを完全にご自分のものとしてくださいますように、という祈りです。
だから、すぐに続けて「私たちの主イエス・キリストが来られるときまで、あなたがたの霊と魂と体を非の打ち所なく保ってくださるように」と祈ります。霊と魂と体とを。私たちをトータルに、完全に、神がご自分のものとしてくださるように。非の打ち所のない者として。もしもこれが私たちの目指すべき目標だとしたら、とても到達できない目標ということになりかねません。ところが、神が私たちをご自分のものとして保ってくださいますように、と祈るのです。
神さまのもの、聖なる者として生きるとはどういうことか?それは、キリストにあっていつも喜んでいるということです。絶えず祈ることです。どんなことにも感謝することです。神さまの奇しき恵の中に生かされているのだから、その恵をいつも数え、神さまを信じる幸せを生きること。それが神さまにあって聖なる者として生かされる日々です。

2021年11月26日金曜日

2021年11月26日の聖句

耳を植え付けた方が聞かないだろうか、目を造られた方が見えないだろうか。(詩編94:9)
あなたがたの父は、あなたがたが願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。(マタイ6:8)

今日の新約聖書の御言葉は、主イエスが弟子たちに祈りを教えたところ、つまり主の祈りの言葉を弟子たちに授けたときの言葉です。「あなたがたの父は、あなたがたが願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」そして「だから、こう祈りなさい」と言って「天におられる私たちの父よ…」と、主の祈りを教え始めます。
とても興味をそそられる言葉です。「あなたがたの父は、あなたがたが願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」そう言われたら、普通は「だから言葉にして祈る必要はない」となりそうです。いちいち細かく祈らなくても神さまは分かっているのだから、しつこく祈るな。そういう言葉が後に続きそうな気もします。ところが、私たちの信じる神様は、私たちが願う前から私たちに必要なものをよくご存じだから、私たちには祈りが必要なのだと言うのです。
つまり、祈りは神さまが知らないことを教えてあげる、ということではないのです。神さまは私自身よりもなお深く私のことを知っておられる。私が知っているのは、せいぜい「私が何をほしいのか」という程度です。しかし神さまは、更に、「私に必要なもの」をご存じです。私たちの祈りを超えて、はるかにすばらしいものを与えることができる方です。だからこそ、「こう祈りなさい」と言って、主イエスは究極の祈りである主の祈りを教えてくださいました。
「耳を植え付けた方が聞かないだろうか、目を造られた方が見えないだろうか。」神さまは、私たちの声を聞くことを喜んでくださいます。私たちが神さまの御前で祈る姿をご覧になることを喜んでくださいます。なんと、神さまは私たちとのコミュニケーションを喜んでくださいます。言葉を換えると、神さまは私たちを愛してくださっているのです。祈りは、私たちの愛の供え物です。しかし私たちの愛は、神さまの私たちへの愛に支えられて、ただそれゆえにだけ成り立つのです。

2021年11月25日木曜日

2021年11月25日の聖句

あなたがたのところで、みなしごは憐れみを見いだす。(ホセア14:4)
あなたがたは、今やよそ者でも寄留者でもなく聖なる者たちと同じ民であり、神の家族の成員です。(エフェソ2:19)

みなしごも、よそ者も、寄留者も、誰でも聖なる民につながれ、神の家族となる。それが教会です。私たちは今やよそ者でも寄留者でもなく聖なる者たちと同じ民、神の家族です。
家族にはいろいろな人がいます。仲のいい家族もいれば、理解不能な人もいたりします。家族は、選んでなるわけではない。生まれたときから家族です。強い人もいれば弱い人もいます。社会の中では弱さは評価されないことが多いですが、家族にとっての弱さは、かけがえのない価値です。当初は弱さを受け入れられないことが多いのは事実です。しかし、弱さの持つ価値は家族を新しくします。まったく同じことが教会という神の家族の中で起きます。いや、肉の家族よりも、神の家族の中でこそ神の起こしてくださった奇跡は明らかになります。一人の人の弱さが神の家族の中で持つ尊い意味があるのです。
みなしごも、よそ者も、寄留者も、社会の中では歓迎されないし、邪魔者扱いされます。世の目から見れば、弱い存在です。だからこそ、教会には弱い存在が必要です。神さまは強いものではなく弱いものを呼び集めて、キリストの体、神の家族をお造りになるからです。
昨日、近所の小学生たちがほうかごの会に遊びに来ました。ある子が、私のおばあちゃんも教会なのと言っていました。どこかの教会に行っているということなのだと思います。嬉しい出会いでした。その子自身も、おばあさんの教会でもさがみ野教会でも、どこであっても教会に行ってほしいと思います。さがみ野教会の軒先に集まってくる子どもたちも、すでに神さまが神の家族の一員として迎えておられるのです。教会という神の家族は、開かれた家族です。血縁も、社会的な立場も、人生経験も、性別も年齢も関係なく、誰でも入ることのできる家族。誰でも軒で雨宿りできる家族。
家族は選んでなるものではない。生まれたときから家族。ただ、家族の中で夫婦だけは例外です。夫婦だけは生まれついての関係ではないし、夫婦になるにあたって自分の意志が働きます。聖書は、私たちをキリストの花嫁と呼びます。キリストが私たちをご自分の妻として迎えてくださる。ここに神の家族の基礎があります。

2021年11月24日水曜日

2021年11月24日の聖句

あなたがたの中に毒草や苦よもぎの根があってはならない。(申命記29:17)
パウロは書いています:主が、互いの愛と、どんな人に対してもかわらない愛をあなたがたに育て、ますます豊かにしてくださいますように、私たちがあなたたたちにたいしてそうてしているように。(1テサロニケ3:12)

今、毎日私たちが読んでいる聖書日課は『日々の聖句』という小冊子に従っています。ドイツのヘルンフート兄弟団が発行しています。始まりは1731年で、もう300年近い歴史があるそうです。籤で定められた旧約聖書の御言葉に従って、新約聖書が決められます。今日のこの二つの御言葉の組み合わせはとても面白いと思います。
毒草や苦よもぎの根があってはならないと言って、すぐに新約の「主が、互いの愛と、どんな人に対してもかわらない愛をあなたがたに育て、ますます豊かにしてくださいますように」という御言葉につながっていく。そうすると、毒草や苦よもぎの根というのは、私たちの互いの愛を妨げるような根、ということになるのだと思います。
互いの愛。今週の日曜日に聞いた主イエス様のお言葉でも、やはり、このようにおっしゃっていました。「互いに愛し合いなさい。これが私の命令である。」主イエス御自身が私たちが互いに愛し合うことを求めておられる。「隣人を自分のように愛しなさい」という掟が、聖書が教える最も大切な戒めの一つだ、とも主イエスはおっしゃっています。互いに愛し合うこと、隣人を愛すること、主イエスは私たちにこのことを求めておられる。
互いへの愛を妨げる毒草や苦よもぎ、それは例えば妬みです。うらやましいという強烈な思いが、妬みを生み出す。あるいは嘘です。ちょっとしたごまかしとかいい加減さが、自分の手に負えなくなってしまう。人のものを自分のものにしてしまいたいという欲望も、時に強烈なものになります。神さまは、「父母を敬え、殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、隣人の家を貪るな」とお命じになりましたが、本当に人間の心を知り尽くしておられると思います。
思えば、「互いに愛し合いなさい」という命令は、そうやって「○○をするな」という命令をいくら重ねても重ねたりない私たちへの究極的な命令、しかも究極的に積極的な表現の命令す。するな、ではなく、愛せの一言。この「互いに愛しなさい」という一句に尽きるのです。そしてこのような愛は、神さまが私たちの内に育て、豊かにしてくださることによって、私たちの内にも現実になる。毒草も苦よもぎも、神さまが刈り取ってくださいます。神さまは私たちを愛の奇跡にあずからせてくださいます。

2025年8月30日の聖句

主よ、あなたは私を回復させ、生かし続けてくださいました。(イザヤ38:16) 時に、プブリウスの父親が熱病と下痢で床に就いていたので、パウロはその人のところに行って祈り、手を置いて癒やした。(使徒28:8) 熱病や下痢を初めとして、あらゆる病に苦しむ仲間のために私たちは祈ります。...