奇しき恵を示してください。あなたの右の手に抗して立ち向かってくる者から逃れを求めている者たちの救い主よ。(詩編17:7)
平和の神があなたがたを完全に聖なる者にしてくださり、私たちの主イエス・キリストが来られるときまで、あなたがたの霊と魂と体を非の打ち所なく保ってくださるように。(1テサロニケ5:23)
この新約聖書の御言葉は、使徒パウロの祈りの言葉です。この手紙を読んでいるテサロニケ教会の人たち、そして私たちのためにも、パウロが一人の使徒、あるいは牧師として祈ってくれています。「平和の神があなたがたを完全に聖なる者にしてくださ」るように、と。
聖なる者と言っています。そう言われると、品行方正で信仰深い人というようなイメージがわくかも知れません。しかし、そういうことではないと思います。聖なる者、それは「神のもの」ということです。平和の神が、私たちを完全に聖なる者としてくださるように。それは、神が私たちを完全にご自分のものとしてくださいますように、という祈りです。
だから、すぐに続けて「私たちの主イエス・キリストが来られるときまで、あなたがたの霊と魂と体を非の打ち所なく保ってくださるように」と祈ります。霊と魂と体とを。私たちをトータルに、完全に、神がご自分のものとしてくださるように。非の打ち所のない者として。もしもこれが私たちの目指すべき目標だとしたら、とても到達できない目標ということになりかねません。ところが、神が私たちをご自分のものとして保ってくださいますように、と祈るのです。
神さまのもの、聖なる者として生きるとはどういうことか?それは、キリストにあっていつも喜んでいるということです。絶えず祈ることです。どんなことにも感謝することです。神さまの奇しき恵の中に生かされているのだから、その恵をいつも数え、神さまを信じる幸せを生きること。それが神さまにあって聖なる者として生かされる日々です。
平和の神があなたがたを完全に聖なる者にしてくださり、私たちの主イエス・キリストが来られるときまで、あなたがたの霊と魂と体を非の打ち所なく保ってくださるように。(1テサロニケ5:23)
この新約聖書の御言葉は、使徒パウロの祈りの言葉です。この手紙を読んでいるテサロニケ教会の人たち、そして私たちのためにも、パウロが一人の使徒、あるいは牧師として祈ってくれています。「平和の神があなたがたを完全に聖なる者にしてくださ」るように、と。
聖なる者と言っています。そう言われると、品行方正で信仰深い人というようなイメージがわくかも知れません。しかし、そういうことではないと思います。聖なる者、それは「神のもの」ということです。平和の神が、私たちを完全に聖なる者としてくださるように。それは、神が私たちを完全にご自分のものとしてくださいますように、という祈りです。
だから、すぐに続けて「私たちの主イエス・キリストが来られるときまで、あなたがたの霊と魂と体を非の打ち所なく保ってくださるように」と祈ります。霊と魂と体とを。私たちをトータルに、完全に、神がご自分のものとしてくださるように。非の打ち所のない者として。もしもこれが私たちの目指すべき目標だとしたら、とても到達できない目標ということになりかねません。ところが、神が私たちをご自分のものとして保ってくださいますように、と祈るのです。
神さまのもの、聖なる者として生きるとはどういうことか?それは、キリストにあっていつも喜んでいるということです。絶えず祈ることです。どんなことにも感謝することです。神さまの奇しき恵の中に生かされているのだから、その恵をいつも数え、神さまを信じる幸せを生きること。それが神さまにあって聖なる者として生かされる日々です。