耳を植え付けた方が聞かないだろうか、目を造られた方が見えないだろうか。(詩編94:9)
あなたがたの父は、あなたがたが願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。(マタイ6:8)
今日の新約聖書の御言葉は、主イエスが弟子たちに祈りを教えたところ、つまり主の祈りの言葉を弟子たちに授けたときの言葉です。「あなたがたの父は、あなたがたが願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」そして「だから、こう祈りなさい」と言って「天におられる私たちの父よ…」と、主の祈りを教え始めます。
とても興味をそそられる言葉です。「あなたがたの父は、あなたがたが願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」そう言われたら、普通は「だから言葉にして祈る必要はない」となりそうです。いちいち細かく祈らなくても神さまは分かっているのだから、しつこく祈るな。そういう言葉が後に続きそうな気もします。ところが、私たちの信じる神様は、私たちが願う前から私たちに必要なものをよくご存じだから、私たちには祈りが必要なのだと言うのです。
つまり、祈りは神さまが知らないことを教えてあげる、ということではないのです。神さまは私自身よりもなお深く私のことを知っておられる。私が知っているのは、せいぜい「私が何をほしいのか」という程度です。しかし神さまは、更に、「私に必要なもの」をご存じです。私たちの祈りを超えて、はるかにすばらしいものを与えることができる方です。だからこそ、「こう祈りなさい」と言って、主イエスは究極の祈りである主の祈りを教えてくださいました。
「耳を植え付けた方が聞かないだろうか、目を造られた方が見えないだろうか。」神さまは、私たちの声を聞くことを喜んでくださいます。私たちが神さまの御前で祈る姿をご覧になることを喜んでくださいます。なんと、神さまは私たちとのコミュニケーションを喜んでくださいます。言葉を換えると、神さまは私たちを愛してくださっているのです。祈りは、私たちの愛の供え物です。しかし私たちの愛は、神さまの私たちへの愛に支えられて、ただそれゆえにだけ成り立つのです。
あなたがたの父は、あなたがたが願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。(マタイ6:8)
今日の新約聖書の御言葉は、主イエスが弟子たちに祈りを教えたところ、つまり主の祈りの言葉を弟子たちに授けたときの言葉です。「あなたがたの父は、あなたがたが願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」そして「だから、こう祈りなさい」と言って「天におられる私たちの父よ…」と、主の祈りを教え始めます。
とても興味をそそられる言葉です。「あなたがたの父は、あなたがたが願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」そう言われたら、普通は「だから言葉にして祈る必要はない」となりそうです。いちいち細かく祈らなくても神さまは分かっているのだから、しつこく祈るな。そういう言葉が後に続きそうな気もします。ところが、私たちの信じる神様は、私たちが願う前から私たちに必要なものをよくご存じだから、私たちには祈りが必要なのだと言うのです。
つまり、祈りは神さまが知らないことを教えてあげる、ということではないのです。神さまは私自身よりもなお深く私のことを知っておられる。私が知っているのは、せいぜい「私が何をほしいのか」という程度です。しかし神さまは、更に、「私に必要なもの」をご存じです。私たちの祈りを超えて、はるかにすばらしいものを与えることができる方です。だからこそ、「こう祈りなさい」と言って、主イエスは究極の祈りである主の祈りを教えてくださいました。
「耳を植え付けた方が聞かないだろうか、目を造られた方が見えないだろうか。」神さまは、私たちの声を聞くことを喜んでくださいます。私たちが神さまの御前で祈る姿をご覧になることを喜んでくださいます。なんと、神さまは私たちとのコミュニケーションを喜んでくださいます。言葉を換えると、神さまは私たちを愛してくださっているのです。祈りは、私たちの愛の供え物です。しかし私たちの愛は、神さまの私たちへの愛に支えられて、ただそれゆえにだけ成り立つのです。