2015年12月13日日曜日

フィリピの信徒への手紙第2章6から11節「従順と高慢」

金曜日にことりの会の0歳からのクリスマス会をいたしました。初めて教会の集会に来られた親子が参加してくださり、とても嬉しかったです。クリスマスにお生まれになった主イエスは、子どもを愛されたお方です。「心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」とまでおっしゃったのです。先週、友人が赤ちゃんを出産しました。初めての男の子が与えられ、特別な思いでクリスマスを迎えているとだと思います。生まれたばかりの小さな赤ちゃんは何と小さく、弱々しいことでしょうか。自分では何もできません。肉体が老い、或いは病のために、以前はできたことができなくなり、日常の生活が思うように運ばなくなることは、厳しいことです。主イエス・キリストは、何もできない赤ちゃんになられました。「子どものようにならなければ」と言われた方が本当に子どもになられたのです。この方ご自身は神と等しい身分であるのに!ご自分がへりくだって、子どもにならなければ、私たちが救われないからです。主イエスのへりくだりは、赤ちゃんになったことには留まりません。「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」礼拝で告白している使徒信条に「十字架につけられ、陰府に降り」という言葉があります。「陰府」という言葉が聖書の中でどう使われているか、最近学びました。旧約聖書の古い時代には、まだ死者の復活という信仰はなく、陰府とは神にも手出しできない死の世界、神への賛美が断たれた世界と考えられていたそうです。しかし、時代が進むにつれて陰府という言葉の理解に変化が起こります。神は天におられるだけではなく、陰府にもまたおられる。神はご自分に従う者を陰府に捨て置くことなく、そこから救ってくださると信じるようになりました。そして、イエス・キリストが十字架の死に、陰府に降られた。ですから、もう神があずかり知らぬ場所はどこにもないのです。イエスが陰府に赴くまでに従順であり、へりくだってくださったから。主イエスがへりくだり神の身分に固執せずに奴隷の身分になられたからこそ、例え死の世界であっても、神はそこにいてくださるのです。病気や困難で弱くなると、心が凍ります。同じ経験をしていない人に何が分かるのかと思い込んでしまいます。しかし、イエスはそのどん底にもおられるのです。ですから、十字架で死なれたイエスの弱さは、私たちにとっての福音です。私たちを救うことができるのは、十字架の無力な神だけです。だから、父なる神はこのキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。私たちは奴隷となって十字架にかけられた神を天に仰ぐのです。私たちの最底辺に立って、私たちの病を担い、私たちの痛みを負ったのは、この方なのです。

2024年12月23日の聖句

私は自分の背きを知っています。罪は絶えず私の前にあります。(詩編51:5) 私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。(1ヨハネ1:9) クリスマスにお生まれになった救い主は「イエス」と名付けられました。主の天使...