金曜日にことりの会の0歳からのクリスマス会をいたしました。初めて教会の集会に来られた親子が参加してくださり、とても嬉しかったです。クリスマスにお生まれになった主イエスは、子どもを愛されたお方です。「心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」とまでおっしゃったのです。先週、友人が赤ちゃんを出産しました。初めての男の子が与えられ、特別な思いでクリスマスを迎えているとだと思います。生まれたばかりの小さな赤ちゃんは何と小さく、弱々しいことでしょうか。自分では何もできません。肉体が老い、或いは病のために、以前はできたことができなくなり、日常の生活が思うように運ばなくなることは、厳しいことです。主イエス・キリストは、何もできない赤ちゃんになられました。「子どものようにならなければ」と言われた方が本当に子どもになられたのです。この方ご自身は神と等しい身分であるのに!ご自分がへりくだって、子どもにならなければ、私たちが救われないからです。主イエスのへりくだりは、赤ちゃんになったことには留まりません。「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」礼拝で告白している使徒信条に「十字架につけられ、陰府に降り」という言葉があります。「陰府」という言葉が聖書の中でどう使われているか、最近学びました。旧約聖書の古い時代には、まだ死者の復活という信仰はなく、陰府とは神にも手出しできない死の世界、神への賛美が断たれた世界と考えられていたそうです。しかし、時代が進むにつれて陰府という言葉の理解に変化が起こります。神は天におられるだけではなく、陰府にもまたおられる。神はご自分に従う者を陰府に捨て置くことなく、そこから救ってくださると信じるようになりました。そして、イエス・キリストが十字架の死に、陰府に降られた。ですから、もう神があずかり知らぬ場所はどこにもないのです。イエスが陰府に赴くまでに従順であり、へりくだってくださったから。主イエスがへりくだり神の身分に固執せずに奴隷の身分になられたからこそ、例え死の世界であっても、神はそこにいてくださるのです。病気や困難で弱くなると、心が凍ります。同じ経験をしていない人に何が分かるのかと思い込んでしまいます。しかし、イエスはそのどん底にもおられるのです。ですから、十字架で死なれたイエスの弱さは、私たちにとっての福音です。私たちを救うことができるのは、十字架の無力な神だけです。だから、父なる神はこのキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。私たちは奴隷となって十字架にかけられた神を天に仰ぐのです。私たちの最底辺に立って、私たちの病を担い、私たちの痛みを負ったのは、この方なのです。
2025年4月3日の聖句
わたしの民は二つの悪を行った。いのちの水の泉であるわたしを捨て、多くの水溜を自分たちのために掘ったのだ。水を溜めることのできない、壊れた水溜を。(エレミヤ2:13) (イエスの言葉)私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出...
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さがみ野教会の皆さま おはようございます。 気持ちのいい、爽やかな秋空の朝を迎えました。お変わりなくお過ごしでしょうか。 明日14日の日曜日の礼拝は成長感謝礼拝(子ども祝福式)です。 讃美歌や説教などが子ども向けのものとなり、大人と子どもとが共に神さまを礼拝し、子どもたちへの祝福...
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仲間に向かって平和を口にするが心には悪意を抱いている「神に逆らう者」いる。しかし、私は主を呼び求めます、と告白する。「至聖所に向かって手を上げ、あなたに救いを求めて叫びます。」新約の信仰に生きる者にとって、この至聖所はキリストがおられる「恵みの座」であり、我らは大胆にもそこに近...
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これほど深い絶望の言葉があるのか。神に見捨てられた。しかも「わたしの神」と呼ぶ方に。昨日までは親しい思いを抱いていたのか。今なお愛を込めて呼ぼうとしているのか。神は応えてくださらない。「主に頼んで救ってもらうがよい」などと誰に言われずとも自分が一番願っている。しかし、助けは来な...