あと一ヶ月ほどで2015年が終わります。皆さんにとっては今年はどのような一年だったでしょうか。私は、悲しみを覚えた一年でした。その一つは、私たちの国の行く末を思っての悲しみです。幸いにして神は私たちの礼拝に幼子を預けてくださっています。この子たちが大人になる10年後、20年後の社会は一体どうなっているのでしょう。ここのところ、権力者の嘘が日常の出来事になってしまいました。これもまた失望を生みます。権力が宿命的に持つ腐敗、というものがあるのではないかとさえ思います。そんな思いでこのクリスマスを迎え、おとめマリアのところへ来た天使の言葉が心にとまりました。マリアの胎に宿った子について、このように言うのです。「彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアの胎に宿った子、イエス・キリストは私たちの王となられる。この一年の悲しみを覚え、主イエスの御支配に生きられるのであれば、それほどの幸いはないと私は思うのです▼フランスでテロがあり、シリアでは連日の空爆が続きます。イエスの御支配など一体どこに見られるのでしょう。イエスの時代から1000年ほど前の時代が舞台の旧約聖書サムエル記上第8章で、イスラエルの民は隣国ペリシテの脅威から自分たちの国を守ろうと、他の国のように王を求めます。つまり、自衛のために普通の国になろうとしたのです。しかし、それは実は神が王であられるのを退けることを意味しました。見えない神が王だなどというのは、彼らにとっては非現実的な理想主義に過ぎなかったのでしょう。王は民を搾取するものだという警告を聞いても民の気持ちは変わらず、やはり王を求めます。その後の歴史の経緯を見ても、結局は自衛力を高めようと王を求め、神の御支配を退けたことがイスラエル破滅の急所でした。そのために権力者は庶民から収奪し、富の寡占、貧富の格差の固定化、汚職、腐敗へと突き進むのです。しかし、神は民が王を求めたときに言われました。「今は彼らの声に従いなさい。」こうして、王が立てられた。それは、多分我々人間には、無理強いしても分からなかったからでしょう。神が王でいらっしゃると言うことが何を意味しているのかが。では、「今は」とはいつまでなのでしょう。それは「神の時が満ち」るまでです(讃美歌262)。その時が来て、おとめに宿ったとき、やはりマリアにも神がなさることは理解できませんでした。「どうして、そのようなことがありえましょう」と神の計画を聞いた彼女は言ったのです▼イエスが就かれた王座とは、金や銀でできた王座ではなく、十字架のことです。イエスの支配は、十字架にかかって我らを罪から救う御支配です。徹底して謙られた王キリストこそ、痛み、傷つく私たちの世界を救ってくださる。私はそう信じています。
2025年12月4日の聖句
律法を知らない子どもたちが、またこれを聞きかつ学び、あなたがたの神である主をいつでも畏れるようになるべきです。(申命記31:13) 父親たち、子どもを怒らせず、主のしつけと諭しによって育てなさい。(エフェソ6:4) 私にとっては非常に耳の痛い御言葉です。「父親たち、子どもを怒らせ...
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1. ヨハネによる福音書は最後の晩餐の場面をとても長く書いている。全部で21章の福音書の内の5章、4分の一に近い。しかも、いわゆる受難週の記事の殆どがこの晩餐の場面だ。その最後の晩餐を覚える祈祷会をこの木曜日に献げている。キリストがしてくださったように私たちもするのだ。主が...
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さがみ野教会の皆さま おはようございます。 気持ちのいい、爽やかな秋空の朝を迎えました。お変わりなくお過ごしでしょうか。 明日14日の日曜日の礼拝は成長感謝礼拝(子ども祝福式)です。 讃美歌や説教などが子ども向けのものとなり、大人と子どもとが共に神さまを礼拝し、子どもたちへの祝福...
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主よ、私の祈りをお聞きください。私の叫びに耳を傾けてください。私の涙に黙していないでください。(詩編39:13) (一人の罪深い女が)イエスの背後に立ち、イエスの足元で泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛で拭い、その足に接吻して香油を塗った。イエスは女に言われた。「あな...