ほうかごの会に遊びに来る子どもたちが多くなり、初めて教会にやって来る子どもたちが増えました。そのためか、「教会ってどんなところ?」「礼拝って何?」と尋ねられることも増えました。そういう風に尋ねてくれるのは本当にうれしい。と同時に、どういう風に答えていいかうまく言葉を見つけられないで困る思いもありました。みなさんは「教会」っていったいどういう場所と見ているのでしょうか?▼こういう風に私は答えたいなと思います。「教会」とは、あなたが一体誰であるか、知るところです。礼拝とは、あなたが一体誰であり、なぜ生きているのかを知る時間なのです、と。これですべてを紹介できていることにはなりませんが、とっても大切な一つをお伝えできるように思います。教会は、自分が誰であるかを知るところなのです。▼「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのだ。」という聖書箇所を読みました。イエスという方が言われました。この方は、「わたしの名によって父に願うものは何でも与えられる」とまで言っています。▼知っているかもしれませんが、イエスという方は十字架に掛かりました。愛を私たちに教えてくださるためです。十字架にこそ目には見えない愛が現れています。▼イエスさまの愛とはどのようなものなのでしょうか?私に礼拝というものを教えてくれた先生がいました。坂本先生という先生です。坂本先生は小学生のときの話をしてくれました。クラスで席替えがありました。好きな人と隣同士になれる席替えでした。みんなは好きな人同士でどんどんペアになっていきます。ですが、ある女の子だけペアになれずに残っておりました。いじめられっ子でした。誰か、「○○さんと隣になってくれるお友だちはいませんか」と担任の先生は呼びかけますが、誰も手を挙げようとする人はいません。坂本先生はイエスさまの愛を知っていたので、心の中が騒ぎました。「あなたも互いに愛し合いなさい」と言われているじゃないか。でもここで手を挙げたら、何を言われるか分からない。でも、従わないでイエスさまと会うときに「ダメだったね」と言われるより、従ってみんなから「なんだお前」って言われるほうがいいや。そう思って、自分を献げるように、手を挙げたのでした。▼イエスさまの十字架というのは、このようなものであり、この何倍も大きなものでした。私たちは今も生きているこのイエスさまに、呼ばれて教会に来たのです。このお方から愛を頂くのです。「わたしの名によって父に願うものは、何でも与えられる。」イエスさまの名によって、というのはイエスさまの生き方を願ってということ。イエスさまの愛に生きようとするときに、必要なものはすべて、天の父が私たちに与えてくださるのです。自分じゃできないなって思う。でもその思いも、根拠にはならない。私たちは、最初は何にも持っていない。主イエスに選んでくださって、初めて私たちはお互いに愛する者になれるのです。私たちはそのような生き方に生きてほしいと招かれている子どもなのです。イエスさまのお父さんを、私たちもお父さんと呼べる神の子なのです。
2025年9月4日の聖句
あなたを助ける父の神により、あなたを恵まれる全能者による。(創世記49:25) 福音は、信じる者すべてに救いをもたらす神の力です。(ローマ1:16) 今日の旧約の御言葉は、25節全体を含めて見ると聖書協会共同訳ではこのように翻訳されています。「お前を助ける父の神から、お前を祝福す...
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1. ヨハネによる福音書は最後の晩餐の場面をとても長く書いている。全部で21章の福音書の内の5章、4分の一に近い。しかも、いわゆる受難週の記事の殆どがこの晩餐の場面だ。その最後の晩餐を覚える祈祷会をこの木曜日に献げている。キリストがしてくださったように私たちもするのだ。主が...
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さがみ野教会の皆さま おはようございます。 気持ちのいい、爽やかな秋空の朝を迎えました。お変わりなくお過ごしでしょうか。 明日14日の日曜日の礼拝は成長感謝礼拝(子ども祝福式)です。 讃美歌や説教などが子ども向けのものとなり、大人と子どもとが共に神さまを礼拝し、子どもたちへの祝福...
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(主の言葉)恐れるな、アブラムよ。私はあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。(創世記15:1) こうして、アブラハムは忍耐の末に、約束のものを得ました。(ヘブライ6:15) 「恐れるな。」神さまは私たちに語りかけてくださいます。「恐れるな!」 しかも、もったいないこ...