2016年9月11日日曜日

創世記1:27、ヨハネによる福音書15:16-17 「あなたは誰ですか?」


ほうかごの会に遊びに来る子どもたちが多くなり、初めて教会にやって来る子どもたちが増えました。そのためか、「教会ってどんなところ?」「礼拝って何?」と尋ねられることも増えました。そういう風に尋ねてくれるのは本当にうれしい。と同時に、どういう風に答えていいかうまく言葉を見つけられないで困る思いもありました。みなさんは「教会」っていったいどういう場所と見ているのでしょうか?▼こういう風に私は答えたいなと思います。「教会」とは、あなたが一体誰であるか、知るところです。礼拝とは、あなたが一体誰であり、なぜ生きているのかを知る時間なのです、と。これですべてを紹介できていることにはなりませんが、とっても大切な一つをお伝えできるように思います。教会は、自分が誰であるかを知るところなのです。▼「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのだ。」という聖書箇所を読みました。イエスという方が言われました。この方は、「わたしの名によって父に願うものは何でも与えられる」とまで言っています。▼知っているかもしれませんが、イエスという方は十字架に掛かりました。愛を私たちに教えてくださるためです。十字架にこそ目には見えない愛が現れています。▼イエスさまの愛とはどのようなものなのでしょうか?私に礼拝というものを教えてくれた先生がいました。坂本先生という先生です。坂本先生は小学生のときの話をしてくれました。クラスで席替えがありました。好きな人と隣同士になれる席替えでした。みんなは好きな人同士でどんどんペアになっていきます。ですが、ある女の子だけペアになれずに残っておりました。いじめられっ子でした。誰か、「○○さんと隣になってくれるお友だちはいませんか」と担任の先生は呼びかけますが、誰も手を挙げようとする人はいません。坂本先生はイエスさまの愛を知っていたので、心の中が騒ぎました。「あなたも互いに愛し合いなさい」と言われているじゃないか。でもここで手を挙げたら、何を言われるか分からない。でも、従わないでイエスさまと会うときに「ダメだったね」と言われるより、従ってみんなから「なんだお前」って言われるほうがいいや。そう思って、自分を献げるように、手を挙げたのでした。▼イエスさまの十字架というのは、このようなものであり、この何倍も大きなものでした。私たちは今も生きているこのイエスさまに、呼ばれて教会に来たのです。このお方から愛を頂くのです。「わたしの名によって父に願うものは、何でも与えられる。」イエスさまの名によって、というのはイエスさまの生き方を願ってということ。イエスさまの愛に生きようとするときに、必要なものはすべて、天の父が私たちに与えてくださるのです。自分じゃできないなって思う。でもその思いも、根拠にはならない。私たちは、最初は何にも持っていない。主イエスに選んでくださって、初めて私たちはお互いに愛する者になれるのです。私たちはそのような生き方に生きてほしいと招かれている子どもなのです。イエスさまのお父さんを、私たちもお父さんと呼べる神の子なのです。

2024年12月24日の聖句

あなたの神、主があなたに与えられた祝福に応じて、おのおの手ずから贈り物をしなければならない。(申命記16:17) (東方の博士たちは)ひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。(マタイ2:11) 東方の博士たちが幼子イエスにお献げした三つの贈り物...