2016年9月4日日曜日

マルコによる福音書6:30-44 「われらを生かすイエスの憐れみ」

「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有り様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」これは、イエス・キリストの憐れみの物語です。たった5つのパンと2匹の魚を増やして5000人を養ったというすごい奇跡の話ではありません。福音書を書いたマルコはそういう関心はありません。ですから、そもそもマルコはパンが「増えた」とすら書いていない。そのようなことよりも、イエスの深い憐れみ、激しく胸を痛める同情を強く伝えています。群衆は「飼い主のいない羊のような有り様」でした。これはちゃんと治めるべき王がいないイスラエルを表す言葉です。昔から、預言者たちがこういう言葉で私利私欲を求める不誠実な王を批判してきました。実際に、この群衆にどういうことが起こっていたのでしょうか。今日の箇所の直前を見ると、洗礼者ヨハネが殺されたということが書かれています。ヘロデ王が自分の兄弟の妻を嫁にしたことをヨハネが批判したのを疎ましく思い、首をはねたのです。権力者、力を持つ者が自分の好き勝手に振る舞う世界。そこに生きる群衆をご覧になった主イエスは、その飼い主のいない羊のような有り様を深く憐れまれました。ローマ・カトリック教会の教皇フランシスコが『福音の喜び』という本を書いています。圧倒的な消費の提供を伴う現代世界の最大の危機は個人主義のむなしさ。このむなしさは、楽なほうを好む貪欲な心を持ったり、薄っぺらな快楽を病的なほどに求めたり、自己に閉じこもったりすることから生じる。私たちはそのむなしさに捕らわれていないか、福音の喜びを隣人に届けることに無関心になっていないかと問います。胸に突き刺さります。今の日本にはヘロデのような王はいません。国民主権の国です。国民が王です。もしかしたら、その王たる国民、つまり私たちがヘロデの顔をしているのかもしれません。世界には神の憐れみを必要で、キリストはこの世界の町や村にご自分の弟子たちを派遣なさり、傷つき、痛んでいる世界が福音の喜びに触れて、一緒に喜ぶことができるように望んでおられます。これは私たちの頑張りではどうにもならない課題です。鈴木淳牧師が、あさひ伝道所の伝道教会設立に寄せて、こんなことを書いておられました。私なりの要約です。「自分たちは華々しく教勢を展開できているわけではない。開設以来、私なりにあらゆる努力をもってチャレンジしてきた。なぜ、という思いもある。もしも人の努力や才能が宣教における成長の大きなファクターだとしたら、介護事業フレンドシップあさひの成長と共に教会も成長しただろう。そうはなっていない。ここには人知を越えた神の領域があるのだと思う。神の前で謙遜な努力を重ねたい。」主イエスは、ヘロデの世界に遣わされた弟子たちが帰ってきたとき、「人里離れた所に行って、しばらく休むがよい」と言われました。「人里は慣れた所」とは祈るための場所という意味です。弟子たちが祈っている間に、主イエスは、ご自分にしかできないことをなさいました。わずかなパンと魚で人々を養われたのです。100人、50人の組、12の籠、5000人というのはイスラエルを表す象徴的な数字です。主は弟子たちが休んでいるときにもなお働いて、ご自分の民である教会を生み出されます。主の御業に信頼をして、私たちは主が渡されるままにパンを配ります。イエスの憐れみが生み出す食事、福音の喜びを、私たちは運んでいくのです。

2024年12月23日の聖句

私は自分の背きを知っています。罪は絶えず私の前にあります。(詩編51:5) 私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。(1ヨハネ1:9) クリスマスにお生まれになった救い主は「イエス」と名付けられました。主の天使...