「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有り様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」これは、イエス・キリストの憐れみの物語です。たった5つのパンと2匹の魚を増やして5000人を養ったというすごい奇跡の話ではありません。福音書を書いたマルコはそういう関心はありません。ですから、そもそもマルコはパンが「増えた」とすら書いていない。そのようなことよりも、イエスの深い憐れみ、激しく胸を痛める同情を強く伝えています。群衆は「飼い主のいない羊のような有り様」でした。これはちゃんと治めるべき王がいないイスラエルを表す言葉です。昔から、預言者たちがこういう言葉で私利私欲を求める不誠実な王を批判してきました。実際に、この群衆にどういうことが起こっていたのでしょうか。今日の箇所の直前を見ると、洗礼者ヨハネが殺されたということが書かれています。ヘロデ王が自分の兄弟の妻を嫁にしたことをヨハネが批判したのを疎ましく思い、首をはねたのです。権力者、力を持つ者が自分の好き勝手に振る舞う世界。そこに生きる群衆をご覧になった主イエスは、その飼い主のいない羊のような有り様を深く憐れまれました。ローマ・カトリック教会の教皇フランシスコが『福音の喜び』という本を書いています。圧倒的な消費の提供を伴う現代世界の最大の危機は個人主義のむなしさ。このむなしさは、楽なほうを好む貪欲な心を持ったり、薄っぺらな快楽を病的なほどに求めたり、自己に閉じこもったりすることから生じる。私たちはそのむなしさに捕らわれていないか、福音の喜びを隣人に届けることに無関心になっていないかと問います。胸に突き刺さります。今の日本にはヘロデのような王はいません。国民主権の国です。国民が王です。もしかしたら、その王たる国民、つまり私たちがヘロデの顔をしているのかもしれません。世界には神の憐れみを必要で、キリストはこの世界の町や村にご自分の弟子たちを派遣なさり、傷つき、痛んでいる世界が福音の喜びに触れて、一緒に喜ぶことができるように望んでおられます。これは私たちの頑張りではどうにもならない課題です。鈴木淳牧師が、あさひ伝道所の伝道教会設立に寄せて、こんなことを書いておられました。私なりの要約です。「自分たちは華々しく教勢を展開できているわけではない。開設以来、私なりにあらゆる努力をもってチャレンジしてきた。なぜ、という思いもある。もしも人の努力や才能が宣教における成長の大きなファクターだとしたら、介護事業フレンドシップあさひの成長と共に教会も成長しただろう。そうはなっていない。ここには人知を越えた神の領域があるのだと思う。神の前で謙遜な努力を重ねたい。」主イエスは、ヘロデの世界に遣わされた弟子たちが帰ってきたとき、「人里離れた所に行って、しばらく休むがよい」と言われました。「人里は慣れた所」とは祈るための場所という意味です。弟子たちが祈っている間に、主イエスは、ご自分にしかできないことをなさいました。わずかなパンと魚で人々を養われたのです。100人、50人の組、12の籠、5000人というのはイスラエルを表す象徴的な数字です。主は弟子たちが休んでいるときにもなお働いて、ご自分の民である教会を生み出されます。主の御業に信頼をして、私たちは主が渡されるままにパンを配ります。イエスの憐れみが生み出す食事、福音の喜びを、私たちは運んでいくのです。
2023年6月1日の聖句
主は死を永遠に呑み込んでくださる。(イザヤ書25:8) 私は、キリストとその復活の力を知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、なんとかして死者の中からの復活に達したいのです。(フィリピ3:10~11) 私たちが受け取った福音、そして私たちが宣べ伝える福音は、「主...
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主イエス・キリストが、安息日になるといつものように会堂に入り、聖書を朗読なさいます。これだけでもう慰め深い言葉です。私たちは今主がそうなさったのと同じように、私たちの安息日である主の日、日曜日に教会堂に集まって礼拝を献げています。今日、ここに来られな...
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最近、キリスト者学生会総主事の大嶋重徳さんという方が『朝夕に祈る 主の祈り』という本を出版されました。「 30 日間のリトリート」という副題がついています。リトリートというのは静かなところに行き、静まって祈りのときを持つことです。主の祈りの小さなお話...
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主は孤児と寡婦の権利を守り、よそ者を愛して食事と衣服を与えることを愛される。だからよそ者を愛しなさい。(申命記10:18~19) 私はかつてよそ者でしたが、あなたがたは私を受け入れてくれました。(マタイ25:35) 昨日、とても悲しいことがありました。とあるSNSで「外国人生活保...