2016年9月25日日曜日

ローマの信徒への手紙8:31〜39 「神はわが味方」

山が崩れ、河川が崩壊するような現象を見ると、私たちは「減」の字を使って物事を捉えます。原因はいろいろあるでしょうが、山や岩が崩れ落ち、削れ、無くなっていくと考えます。しかし、専門家は同じ現象を見て、岩石の生産と表現するのだそうです。私たちが「減」として考えるものを、同じ現象を見て「生産」と捉えているというのです。これは、もしかしたら私たちが知っていることかもしれません。神を信じる者は悲しみの出来事や望みを失ってしまう出来事に、「減」ではない出来事を見ることができるのではないでしょうか。信仰の目を開いて受けとめがたい出来事を見つめ直すと、そこにも神の愛が働いていると気づくのです。新しいものが生み出されていると気づく。信仰の目を開くとはどういうことか。「もし神が私たちの味方であるならば」とこの手紙を書いたパウロは言いました。信仰の目を開くとは、神が私の味方であると信じるということです。神が私の味方でいてくださる、それは、「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」ということです。父なる神様は、私たちのためにご自分の御子を死に渡してくださった、十字架につけてくださった。そうまでして私たちに寄り添ってくださったのです。神は私たちの味方。これは、神は私たちのための神でいてくださる、という字で言い表されています。「私たちのための神。」ある人は言います。これは、「神が、世界を、人間を、その限界を知らないほどの困窮の状況にあっても、お見捨てにならなかったということ。そうではなく、この困窮を、ご自身の困窮として担おうと欲せられた、ということだ。」神は私たちがどんな苦しみや悲しみの中にあっても私たちを見捨てられることがありません。それどころか、それをご自分の苦しみとしてくださいます。ですから、パウロはこうとまで言います。「わたしは確信しています。死も、命も、・・・わたしたちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」私たちのどんな苦しみも、悲しみも、死さえも、キリストの愛、神の愛から私を奪い取ってしまうことはない。どんな時にも私たちはキリストのものだ、と。今日は召天者記念礼拝なので、週報に逝去者の名簿が挟まれています。この一年、新しく一人の方のお名前が加えられました。MSさんは私にとって牧師になって初めて洗礼を授けた方です。洗礼をお受けになった時にMSさんが明確に求めておられたのは、罪の赦しでした。死が私たちを神の愛から奪い取りかねない敵になり得るのは、私たちが罪人だからです。罪人として、私たちは呪われて死ななければならない。神は、そんな私たちのためにキリストを下さって、キリストを死に引き渡されて、十字架のキリストが私たちの罪を全部引き受けてくださいました。復活させられたキリストが私たちのために神に執り成してくださいます。それならば、誰が私たちを神の愛から引き離しうるでしょう。神は私たちのための神でいてくださいます。ですから、私たちにとっての死は、もう呪われた死ではなくて、より素晴らしい命に生まれるための通路です。その先頭をキリストが進んでおられる。召天者名簿に名前が書かれた方たちは、キリストを先頭にした新しい命への行進に連なっています。私たちも続いて行こうではありませんか。

2024年3月28日の聖句

正義は国を高める。罪は民の恥となる。(箴言14:34) イエスはそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。目的の場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。(ルカ22:39~40) 主イエス・キリストは、この夜も「いつ...