山が崩れ、河川が崩壊するような現象を見ると、私たちは「減」の字を使って物事を捉えます。原因はいろいろあるでしょうが、山や岩が崩れ落ち、削れ、無くなっていくと考えます。しかし、専門家は同じ現象を見て、岩石の生産と表現するのだそうです。私たちが「減」として考えるものを、同じ現象を見て「生産」と捉えているというのです。これは、もしかしたら私たちが知っていることかもしれません。神を信じる者は悲しみの出来事や望みを失ってしまう出来事に、「減」ではない出来事を見ることができるのではないでしょうか。信仰の目を開いて受けとめがたい出来事を見つめ直すと、そこにも神の愛が働いていると気づくのです。新しいものが生み出されていると気づく。信仰の目を開くとはどういうことか。「もし神が私たちの味方であるならば」とこの手紙を書いたパウロは言いました。信仰の目を開くとは、神が私の味方であると信じるということです。神が私の味方でいてくださる、それは、「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」ということです。父なる神様は、私たちのためにご自分の御子を死に渡してくださった、十字架につけてくださった。そうまでして私たちに寄り添ってくださったのです。神は私たちの味方。これは、神は私たちのための神でいてくださる、という字で言い表されています。「私たちのための神。」ある人は言います。これは、「神が、世界を、人間を、その限界を知らないほどの困窮の状況にあっても、お見捨てにならなかったということ。そうではなく、この困窮を、ご自身の困窮として担おうと欲せられた、ということだ。」神は私たちがどんな苦しみや悲しみの中にあっても私たちを見捨てられることがありません。それどころか、それをご自分の苦しみとしてくださいます。ですから、パウロはこうとまで言います。「わたしは確信しています。死も、命も、・・・わたしたちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」私たちのどんな苦しみも、悲しみも、死さえも、キリストの愛、神の愛から私を奪い取ってしまうことはない。どんな時にも私たちはキリストのものだ、と。今日は召天者記念礼拝なので、週報に逝去者の名簿が挟まれています。この一年、新しく一人の方のお名前が加えられました。MSさんは私にとって牧師になって初めて洗礼を授けた方です。洗礼をお受けになった時にMSさんが明確に求めておられたのは、罪の赦しでした。死が私たちを神の愛から奪い取りかねない敵になり得るのは、私たちが罪人だからです。罪人として、私たちは呪われて死ななければならない。神は、そんな私たちのためにキリストを下さって、キリストを死に引き渡されて、十字架のキリストが私たちの罪を全部引き受けてくださいました。復活させられたキリストが私たちのために神に執り成してくださいます。それならば、誰が私たちを神の愛から引き離しうるでしょう。神は私たちのための神でいてくださいます。ですから、私たちにとっての死は、もう呪われた死ではなくて、より素晴らしい命に生まれるための通路です。その先頭をキリストが進んでおられる。召天者名簿に名前が書かれた方たちは、キリストを先頭にした新しい命への行進に連なっています。私たちも続いて行こうではありませんか。
2025年9月4日の聖句
あなたを助ける父の神により、あなたを恵まれる全能者による。(創世記49:25) 福音は、信じる者すべてに救いをもたらす神の力です。(ローマ1:16) 今日の旧約の御言葉は、25節全体を含めて見ると聖書協会共同訳ではこのように翻訳されています。「お前を助ける父の神から、お前を祝福す...
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1. ヨハネによる福音書は最後の晩餐の場面をとても長く書いている。全部で21章の福音書の内の5章、4分の一に近い。しかも、いわゆる受難週の記事の殆どがこの晩餐の場面だ。その最後の晩餐を覚える祈祷会をこの木曜日に献げている。キリストがしてくださったように私たちもするのだ。主が...
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さがみ野教会の皆さま おはようございます。 気持ちのいい、爽やかな秋空の朝を迎えました。お変わりなくお過ごしでしょうか。 明日14日の日曜日の礼拝は成長感謝礼拝(子ども祝福式)です。 讃美歌や説教などが子ども向けのものとなり、大人と子どもとが共に神さまを礼拝し、子どもたちへの祝福...
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(主の言葉)恐れるな、アブラムよ。私はあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。(創世記15:1) こうして、アブラハムは忍耐の末に、約束のものを得ました。(ヘブライ6:15) 「恐れるな。」神さまは私たちに語りかけてくださいます。「恐れるな!」 しかも、もったいないこ...